◆社長逮捕の以前以後 ライブドア社長の名前が容疑者という肩書きで報道されるようになってから、堰を切ったように、堀江貴文氏への批判が飛び交うようになった。 逮捕される以前に、無闇に悪口を書くと、名誉毀損云々ということになる故であろうか。それなら、逮捕された者には名誉毀損は当たらないのだろうか。もしそれが冤罪であったとしても。 否、堀江貴文氏がどうということをここで詮索するつもりはない。あくまで、言論とはどういうことか、に光を当てるだけである。 ブログの社長日記へのコメントには、応援する声も寄せられている一方、逮捕報道以来、非難や悪口も明らかに急増している。それは個人に限らず、マスコミもそうである。大手新聞各社が、逮捕ではもちろんのこと、捜査のメスが入って以来、声高にライブドア批判を始めた。とくに、かねてからライブドアとの提携の一端を担うことが面白くない新聞社は、捜査当初から激しい非難を浴びせた。他社も、逮捕によって論調をはっきり変えてきた。強い口調になったということである。 金で人の心など買えない、というふうに、堀江氏の主張を否定するようになった。 急に、どうしたことだろう。まるで、社会の「考え方」が、急激に変わったかのようである。それまで殆ど表に出なかった考え方が、急に正論として世の中の中心を通るようになったように見える。 それとも、それまで実はそう思っていたのに、押し隠していたとでも言うのだろうか。 あるいは、突然ライブドアの他の存在が、すべて正義の味方となったのであろうか。 誰かに悪のレッテルが一旦貼られると、他の人々はそれを非難することによって、共に善の側に立つ者であることを立証しようとする。そんな構図があるとすれば、まさにそれこそ、「いじめ」の構図ではないか、と思う。金で人の心が買えるという堀江氏をここまで持ち上げてきた報道機関が(そして政治家は言うまでもなく)、どうして「今」その考え方を叩くのか。その思想に反対しなかったことへの、自らの責任というものは、感じないのだろうか。 いや、それは私にしても、言えることかもしれない。そんな考え方と私とは接するところすらなかったために、ことさらに取り上げもしなかったのだけれども、本来もっとその考え方についてははっきり反対のコメントをしておくべきだったのだ。 まず罪なき者から石を投げよ、というイエスの言葉をかみしめつつ、この一種の「いじめ」からの脱却を図りたいと思う。 |