◆子どもは共有財産と書く人の考え 「子供は社会の共有財産であることをもう一度、認識し直さなければならない」 子どもの命が軽んじられた、ある事件に関するコメントとして、産経新聞の社説「主張」が述べた締め文句である(2004年10月21日)。 なるほど、たしかに、と頷いてしまいそうな結論である。だが、読んだ瞬間、私は違和感をもった。 私は、子どもが社会の「宝」である、と考えることはある。だが、「財産」しかも「共有財産」などとは決して言わない。なぜか。 思うに、「宝」は、それ自体かけがえのないものである。他の手段、たとえば金で買い直すことのできないものであり、それ自体が目的となる。しかし、「財産」は違う。「財産」は、増やせば私が豊かに感じるものであり、また私の自由に処分もできるものである。つまりは、手段に過ぎない。 しかも「共有」とはどういうことか。「共に有つ」ということである。その主語、主体があるはずである。ここでは「社会」である。 この新聞は、明言することは避けている。この「社会」が何を意味するのかは、当然分かるはずだという前提なのか、それとも、「社会」という言葉でその気のない人にも考えを受け容れさせようという方策なのか、あるいはまた、そのどちらでもあるのか、私はここで断定はしない。 もちろん、ここで言われている「社会」の意味は「お国」なのである。 だから、認識「し直す」と付け加えているのも、よく意味が分かる。かつて子どもが国家の財産とされていた時代があった。そこへ戻らなければならない、と言っているのだ。 人間、言葉の端々に本音が出る。細かな表現に違和感を覚えたとき、そこを見過ごさないほうがいい。詐欺を見破る方法も、「おかしい」と感じたことを重くみることだと聞く。 |