◆公共の精神を尊ぶ 2006年春、教育基本法改正を巡り、自民党と公明党は、前文に「公共の精神を尊ぶ」と明記することで合意した。これを「愛国心」と表記するかどうかが、与党内部での議論であるようなことも、新聞社説はこぞって取り上げた。もちろん、それは新聞社により全く違う意見が出された。一社のみお読みの方は、気をつけて戴きたい。新聞社の意見は、世の中で大半の人が抱く正論であるような錯覚が生じやすいが、実はそれは対立意見の一つに過ぎないのであり、中には論点のすり替えや対立因子を潰すためのレトリックを駆使する新聞もある。 私は、大人がその「公共の精神を尊ぶ」ことができているだろうか、いや、「公共の精神を尊ぶ」ということを蔑ろにしていないか、と思う。 ここで「公共」とは何か。半ば誘導尋問的に、「国」へ流れるようには思えない。私利ではなく、公正な判断を求めることとするなら、はたして選挙に勝つために多大な税金で地元だけが喜ぶような施設を作るように仕向ける政治屋は、「公共の精神を尊ぶ」ことをしているのだろうか。しようとしているのであろうか。大きな金を動かせる立場にある者が、いわば自分がこんなに大きなものを造ったのだぞと名を残すためだけに、誰も使わないような施設を建設することが、「公共の精神を尊ぶ」ことをしているのかどうか。 難しい問題だが、「公正」とは、事実であれば何でも主張して構わない、ということでもない。一万タラントン借金のある家来が、王に許しを乞うた。あまりに哀れなので、王はその家来を許した。しかしその家来は、外に出て、自分に百デナリオン(一万タラントンの60万分の1)の借金をしている仲間の首を絞め、金を返せと言い、牢にまで入れた。借金を返せない者が罰されるという意味では、後者は法律違反ではない。だが、これは「公正」ではない。聖書も、その点を指摘している。 「公共の精神を尊ぶ」とはどういうことなのか、明白であるようには見えない。ということは、如何様にも誘導される危険性をもっている、ということである。多分に、この「公共の精神を尊ぶ」という言葉は、私を殺して公に奉仕する――自分の意見は捨てて国の命令に従え――、ということを正当化するための言葉でありうるのである。すでに歴史のみならず、「心のノート」や「家庭科」などで、その下準備は調えられている。 今普通に見られるように、何らかの権力をもつ者が優遇されるように動いている社会が、「公共の精神を尊ぶ」ものであるとは、とても思えないのだ。当然、子どもたちに伝わるものも、別のものにすり替わってしまうであろう。 |