◆心の闇

 世間の関心を集める犯罪は、しばしば「心の闇」をもつ人によって起こされている。報道関係が好む表現である。
 弁護側は、心神耗弱などを理由にし、罫の軽減を図る。犯罪被害者ならびに一般市民の感情は、それに憤りを覚える。こうした図式が、多くなっている。まるで、獣に突然やられたようなものだから報復は諦めろ、というふうに聞こえるときもある。
 被害者の悲痛な叫びに対して、ようやく司法界も、動きを変えてきた。安易に精神的な弱さを以て無罪とすることを避けるようにシフトしてきた。
 この図式に、問題がないわけではない。「心の闇」を抱える人、あるいは心に弱さをもつ人の場合は、マスコミも、(語弊があるかもしれないが)たたきやすい。経済的にあるいは暴力的に力をもつ団体や個人に対しては、たたきにくいが、権力的な背景も経済的な影響力ももたない弱者には、いまなお報道協定もいい加減であるらしい。光市の本村さんもそのことを差し戻し審でもあったことだと嘆いている。このようなマスコミの圧政的な報道に、世間がさらに憤りを覚えていくという構図が認められる以上、はたして本当にそれが市民感情と言えるのかどうか、疑問が生じると思うのである。
 それにしても、たびたび言われる「心の闇」という言葉。私は常々、心の闇をもたない人間がいるのか、自分はもたないつもりでそんな言葉を他人にあてはめるいじめが楽しいのか、と叫んできた。
 これほどに「心の闇」が犯罪に関わるようになってくると、また別の見方が発生する。つまり、そもそもこの時代全体が、「心の闇」に覆われているのではないか、と。
 別の考え方もあろう。病名が付けられて初めて病気というものは生まれる。トラウマやストレスというものも、それが認められる前までは、何ら問題や理由にされることがなかった。病気はつくられるものだ、というとらえ方からすると、この「心の闇」も、昔からあったものであり、ただ今の時代になって初めて、病気のようなものとしてカウントされるようになったに過ぎない、という考え方である。
 だが、そうだとすればなおさら、この「心の闇」は人々全体を今たしかに覆っているのである。そして、その世界を外に立って眺めているつもりの人が、最も危険であることに、気づく必要がある。
つぶやきの カ・ケ・ラ


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