◆意図的な誤用 「いままた中国は外交カードとして靖国問題を再燃させ、心ある日本人の憤激を買っている」と、2004年12月11日の「産経抄」は書いている。 この文には意図的な誤用が仕組まれている。お気づきの方も多いかと思うが、ここに明示してみよう。 靖国問題が「心ある」日本人を怒らせているというところである。「心ある」とは、ここでは物の道理の分かるという意味であろう。この言葉は、反対の「心ない」を想起させる。こちらは、思慮がないという意味となる。 つまり、中国が靖国問題を持ち出すことに怒る日本人は道理が分かる人間であり、それを怒らない――従って靖国神社に戦犯を祀り神と崇めることに問題があると指摘する――日本人は、思慮がない、と言っているのである。 だが、この「心ある」「心ない」という場合の「心」とは、辞書からすると、道理・風情・思いやり、すべてを含む意味をもっている。つまり、知情意すべてを包含する概念と説明されている。つまり、「心ない」という言葉は、ほとんどその人間の人格を否定するようにして使われるものである。 それは、人が大切にしている花を盗む、あるいは健気な行為につれない仕打ちをするなどといった、恐らく誰が考えても悪いことと認めざるをえないような行為に対して用いられるのが普通である。 だから、イデオロギーや意見を異とするだけの人々に対して、安易に用いることはできないはずの言葉である。「私はA案に賛成だ。A案に反対の人々は、実に心ない」などと言うことは、できない言葉なのである。 それを、さりげなくこの大新聞がやっている。むしろこのような問題に憤激することのほうが「心ある」とさえ言ってよいのではないか。 小さな一言に過ぎないことのようだが、私が常々取り上げるように、こうしたことが繰り返されている以上、これは言論というものではない、ということを、私たちは見張っていなければならない。でないと、言論というものが成立しなかった前世紀前半の歴史が、おそらくはそのとき以上に悲惨な形でまた繰り返される可能性が大きくなってくるのである。 |