◆子どもと子供 不覚にも、こんなに熱い議論があるということに気づいていなかった。 漢字表記の問題として「子ども」か「子供」かという議論である。いや、議論というよりは、「子供」だけしか認めない人々が、一方的に「子供」派が滔々と語っているというに近い。中には、「子供」を主張する人が少数で、「子ども」という多数派の暴力の中で抵抗しているのだからどんな言い方をしても構わない、と勘違いをしている人もいた。 公的機関などが「子ども」を推奨している。それに対して、いくつかの歴史的論点から、「子供」にすべきだ、と反論しているのが大筋である。 私は、文章の中では「子ども」と使うことが多い。あるいは「こども」である(こどもワイド)。個人的に、「子供」とは書かない。「供」の字の「語感」が嫌いだからだ。それは、何も差別だと断じているわけでもないし、お上が言うからでもない。政府が「子供」を推奨しても、使いたいとは思わないだろう。 その「供」が、お供だから、と決めつけているわけではない。そういう意味が転注のような働きでそうなったことも理解できるからだ。でも、お供をイメージさせることは私の感覚として事実、ある。それを人に伝えることには、抵抗を感じる。「供える」という読み方や、「ども」という響きを好まない感覚ゆえに、好んで使おうとは考えないだけだ。子どもたちを、そのような響きのある言葉で私が指したくはないという、私の気持ちがそうさせている。 交ぜ書きが好ましくないことも、分かっているが、「子」がメインであるゆえに、視覚的にその意味が伝わりやすいゆえに「こども」よりは「子ども」が伝達性に優れていると感じている。 反対論者の中には、「子どももももを……」のような例文を出して、読みにくいだろうと揶揄したり、交ぜ書きの他の例を持ち出して馬鹿げていると呆れているものもあったが、当人が「友だち」と記してあるのを見ると、とにかく「子ども」に敵意をもっているだけなのだという印象が伝わってくるばかりである。 私も「友だち」と使う。交ぜ書きの中でも、「だ捕」「ら致」(なんて嫌な言葉なのでしょう)とは違って、「子ども」「友だち」には、メインの意味の部分には漢字を使い、(元は)複数形(または敬意)を示唆する接尾語のようなものはかなでソフトに伝えるという、一定の役割があると考えている。 そして大切なところは、私が他の人に「子ども」と書くべきで「子供」と書いてはいけない、などとは強要していないことである。これらは、私の語感である。好みである。 他方、一見英語風の「X'mas」は一向になくならない。これは、誤りである。語感の問題ではない。また、「狭き門」を入試のような事例に使うのは、意味として明らかに誤りである。だが、言葉として使われているとするなら、これはもう聖書とは別の言葉なのだと認識するしかない。これを誤りと駆逐するのは、現状ではやや強硬かもしれないと感じる。「他力本願」は、私は使わない。本願寺では、これを誤った意味で使わないでほしいと主張している。徐々に浸透してきているように見える。教えの根幹に関わる部分なので、これは使い方の誤りとして、主張してもいい範疇にあるのではないかと捉えている。 このように、明らかな誤りでさえなくなることがなく、語感だけで使用してはならない例も多いことだろう。ただ、「他力本願」のような例とは違い、「子ども」と書くことによって、特定の人を傷つけたり虐げたり圧力を加えたり、まして人をけなしたりすることには、基本的にならない。また、「子ども」が誤りであるというほどの論拠もとくにあるわけではない。たぶん、「供」が差別だという説明が、誤りなのであろう。 「子供」にすべきだ、と繰り返し強く称えるグループの中には、「子ども」を使う人を無知蒙昧の権化のようにけなす人がいる。また、「子供は供でよい、子供が子供と呼ばれて問題を感ずるだろうか」みたいな言い方をする人もいた。そして、「子ども」などと書いていると漢字そして日本が滅びる、と言い始めたりする。 こうなると、歴史的用法云々とは関係なく、この人がどんなものの言い方をする人なのかが明らかになってくるし、日本を滅ぼすのは果たしてどちらなのか、という問いが私の中に浮かび上がってくる。 歴史的に、あるいは漢字としてこういう意味であるから「子ども」でなく「子供」でも悪い意味はないのだ、と世に示せばよいのではないだろうか。 |