◆殺すという言葉の有無によらず

「きさん(貴様)、殺しちゃあ(殺してやるぞ)」
 小学生がそう言って、殴りかかろうとする。
 これでもう、あなたは、恐ろしい殺人現場を想像しただろうか。それとも、ありふれた戯言だと思っただろうか。
 佐世保の小六による殺害事件で、「お前を殺しても殺したりない」など、「殺す」という言葉を書いたノートがあったことが発表された。
 やっぱりそんな言葉を吐くくらいだから行動に起こしたのだろう、という考えもある。どうしてそうした言葉を真剣に受け止めなかったのか、と教師などを責める声もあるだろう。だが、それは酷というものだ。
 子どもは、体験ではないものは、疑似体験で学習していく。動物の兄弟が、ほとんど真剣に争い噛み合っているかのようにまで見える、ふざけ合いをするのも、格闘の練習である。人間の子どもも、ままごとをして仕事を覚え、時にケンカをして、人の気持ちを学習していく。小さいときにケンカもしたことがない子というものが、一番怖い。
 殺すという言葉に過剰に反応して、もしも子どもの口を封じるとなると、まったく逆効果になると言いたい。
 ネットの書き込みも、交換日記も、それらが悪いなどとは誰も言えない。むしろ、そうしたものが悪いとすることによって、傍観者は自分はこの事件とは関係がない、という立場に退きたいがゆえに、教師なりネットなり、誰かのせいにしようとする。
 後から見れば、加害女児に様々な傾向が見られたにせよ、事件を起こしさえしなければ、それはただの一過性の成長過程に過ぎなかったものである。止められなかったといって、現場の関係者を裁くことは、私たちにはできない。少なくとも、私には、できない。
 暴力映画やホラー映画の制作者のせいにもできない。そうした映画を楽しみ、あるいは許している私たちすべてが、事件の加害者に名を連ねるのでなければ、こうした悲劇は、乾いた風のようにまたどこかに吹いてくる可能性がある。
 大阪で、信号無視の車が、それを停止させた巡査長を殺した。若い男二人だったようだ。人の痛みを感覚しないようにさせている、世の中全体が悲しまなければならない。携帯電話を使うなという放送やステッカーを無視してケータイをいじる人々、これほど指摘されても歩行喫煙を止めない喫煙者、これら本人は、この若い男二人と何の差別もない。「殺す」という言葉を発することもなく、これらの人々は、人を殺しているのだ。まさか自分がそんなことをしているという意識もなく、するつもりもなかったなどと言い逃れをして。
 そしてまた、それを黙認している私たちも、あのあ巡査長の死に責任があると考える必要がある。
つぶやきの カ・ケ・ラ


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