◆ケータイ基地をマンションに

 マンションの管理組合で、携帯電話の中継基地にすることを受諾するかどうか、という話し合いがなされたことがあった。
 業者側もにこにこと、夜の会合にまで来て売り込むわけで、まあいいんじゃないの、という雰囲気も一部流れていた。が、電波に対する過度な恐怖感が、一部から出された。それは確かに、あまり知識がないままでの、一方的な断罪に近かった。
 しかし、その感情的な勢いが共感を呼び、結局中継基地になることを認めないことになった。
 ある意味で、それは危ない選択だった。発信する電波が問題であるのなら、自分のマンションを基地としていた方が、安全である、という考え方もあった。逆に隣のマンションに取り付けられたら、まともにこちら側が電波危険区域として照射されることになりかねないからである。
 その後しばらくして、近くのマンションの人が、ここにも運動に参加するように呼びかけるチラシを撒き始めた。今度はあの業者が、そのマンションに取り付けるように寄ってきたのだという。
 まず、基地にするための器具を高いところに取り付けて、安全性が保たれるかどうか怪しい、という主張だった。福岡では、地震を経験して以来、揺れて物が落ちてくるという危険性に、ようやく目覚めたところである。たしかに、この点は主張は尤もだと思われた。
 だが、次に、電波が危険であるということが、また延々と述べられているのには驚いた。
 たしかに、私も、その電波はたまらないと思う。その心理は、日頃電車の中でケータイにひたむきになる人々が、犯罪者集団にしか見えない点からも、証明できる。だが、ケータイの基地は電波が危険だから反対だ、という理屈には、素直に同調できないのも、私だった。
 もし、電波が危険だからという理由であったら、結論はこうでなければならない。「ケータイ電話を世の中からなくそう」と。
 しかし、自分はケータイを日々使っているけれども、自分のところに基地を設置するのは危険なのでやめろ、と主張するのであれば、限りないエゴ丸出しに過ぎないのだと感じる。ケータイは自分は使うが、その基地となって危険な電波の餌食になるのは、誰か他の人であってくれ、というのだから。
 こう言うと、火葬場だって、自分に必要なのに、自分の家のそばに作られたら嫌だろう、と居直る向きもあるが、火葬場とケータイの基地とは、性質がまるで違う。火葬場は、人里を離れて設置することが可能であるのに、ケータイの基地は、人里の中に作らなければならないからである。
 つまり、自分がケータイを使うということは、誰かの家がいつも強力な電波に包まれている、ということである。
 高圧電流を流す鉄塔の場合にも、類似の論理が成り立つことを承知で呟くが、やはり、ケータイというものを世の中からなくそう、という方向性なしに、自分のマンションにだけは、危険であるゆえにケータイの基地を設置することを許さない、という論理は、おぞましいものだと考える。
 その論理が、どれだけ世界の貧困や自由抑圧の現状から目を背ける結果を生んでいるか、心寒く思えてくるのである。
つぶやきの カ・ケ・ラ


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