◆感動的なドラマの背後に感じる世相

 最近、感動的なテレビドラマが多い。連続ドラマにしても、単発ドラマにしろ、病気と闘うという話が、気のせいか非常に多いように見える。ドキュメンタリーも含めれば、かなりの数ではないかと思う。
 多くが、事実に基づく話である。だからこそ、リアリティーがあるのも分かる。
 そうしてたしかに、それを見ると、「頑張ろう」という気持ちになる。
 生きた証しがドラマとなって、やはり関係者もうれしいだろうと思うし、そのドラマ自体に、何の文句もあろうはずがない。
 だが、ある人は言う。――こんなに感動ものが続くと「またか」という気になる。
 くり返すが、一つ一つのドラマにケチをつけるつもりは、全くない。さらに、テレビ局の習性として、他局で成功したものは類似のものを制作したくなる、というのも理解はしているつもりだ。
 だのに、この連鎖は何なのだろう。
 私にそれが分かるはずもないが、一つ気になることがある。これらの闘病ものは、結局病気に克てない前提がある。死ぬことが分かっており、限られたその残りの生の中を、輝いて生きた後、いわばほぼ決まっていた筋書きの通りに、亡くなるのだ。
 そこに、何か時代の空気を感じないだろうか。社会を自分たちの手でなんとかつくりかえよう、という時代とは異なる、何か。社会はどうせ変わることもない。自分たちがそれを変えるということもできない。どうしてもなるようにしかならない。その中で、自分は自分らしく輝いていたい。世の中を変えるのではなくて、その中で限られた自分が自分らしくありたいのだ……。
 それが、「本当の自分を探す」ことであったりするし、モノではなくてココロのありかたに安らぎを求めるというふうな意味での「スピリチュアル」という軽い言葉が口々に唱えられたりする。
 なにも、社会変革を目指すべきだとか、革命を起こせとか、癒しはくだらないとか、言っているつもりはない。ただ何か、右へ倣えの事勿れが、さも当然のように居座っているような雰囲気を感じてしまうのは、考えすぎなのだろうか。社会組織が明らかに「おかしい」にも拘わらず、それを追及する気力さえ失せてしまっているようなことに、いろいろ気づく私のような者が、反社会的だと烙印を押されるだけの時代に、なってしまったのだろうか。
つぶやきの カ・ケ・ラ


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