◆加害者は加害者2 これは「加害者は加害者」の続きである。記者会見の翌日のワイドショーをちらりと見たままの印象を述べる。 案の定、と言うのは悲しい言葉だが、タレントの島田紳助が起こした暴行事件について報道するあるワイドショーは、タレントを擁護するものばかりに見えた(ごく一部良識ある人は、擁護しなかったことも申し添えておく)。 彼らにとって、島田紳助は馴染みのある「仲間」である。あいつはふだんいい奴だなどとの理由で、擁護したくなる気持ちは、分からないでもない。法律番組に関わり、告訴のんたるかを知っているがゆえに、取り下げてもらおうと派手に泣いている姿に気づいていないのも問題だが、この「仲間」たちが、飲み屋で会話しているのではなく、テレビという場でこれをやることの大いなる責任に、気づいていない。 暴力は絶対にいけないと前置きしつつも、いわば島田紳助と同業の出演者たちは、一方的に殴られ侮辱された被害者の敬語が間違っていることをしきりに挙げる。 気づいていない。それは暴力を肯定していることなのだ。 テレビというものは怖い。こうして、タレントとその周辺のテレビ出演者たちの言葉が拡声されることによって、それが正しいのだという空気が流れていく。殴られ罵倒されただけの被害者のほうが悪いイメージが植え付けられていく。 気づいていない。出演者たちは皆、単なる「いじめ」をしているのだ。これは「いじめ」の構図以外の何ものでもない。通常、「いじめ」をしようとしていじめている子どもたちはいない。このテレビ出演者たちは、自分もそうであることに全く気づいていない。 次のような譬えはどうであろう。 Aが刺された。Aが君が代を歌わなかったことがけしからん、と著名なBが刺したのだ。刺すのはよくない。だがBの気持ちも分かる。著名なBのことだからここは大目に見ておきたい。それにしてもAはなんで……。 こういった時代を呼び込むような、番組コメントだったことに、誰も気づいていない。 |