◆集団自決の悲しみのために

 何が言いたいのか、はっきりしなくても、読んだ人におそらくこういうふうに思わせようと意図していることが見えたとき、実に嫌な気持ちになる。
 カルトの洗脳の話ではない。新聞である。
 述べていることの骨子はこうである。沖縄戦の集団自決は軍が指令したものではない。
 そうした事実を示したいなら、それはそれでいいのだ。だが、産経抄はこう述べてくる。
《問題は、これほど事実が明らかになったのに、まだ命令説が信じられほとんどの教科書に書いてあることだ。南京事件や慰安婦問題と同じパターンである。虚偽の歴史が独り歩きする怖さは、「歴史」が国際問題となるとき何度でも強調されなければならない。》(2005年4月24日)
 挙げられた二つの事件は、産経新聞の一派の教科書が、歴史から抹消したがっている事項である。その証言に虚偽が含まれていたが「ゆえに」、その事件もなかったことにすべきだと主張していると解釈されてよい姿勢でいる事柄である。なぜなら、「同じパターン」だと断定しているから。
 こうして、政策的に教育され捨て石とされた沖縄での集団自決というおぞましく悲しく辛すぎる事実が、日本軍とは関係がなく、軍の「影響」でなされたものですらなく、民衆が勝手にやったものである、と「臭わせる」こととなった――と言ったら、それこそまた私の勝手な想像だ、などとお叱りを受けるかもしれない。
 だが、文学的つまりレトリックとしては、「同じパターン」があることによって、さも事実だけを伝えたように一見うかがえる主張が、実は意図をもっているということを感じさせ、意図した通りの読者の「誤解」を誘っているということが明らかになっていくのではないか、と提案しているだけである。
《何とも痛ましい事件だった。が、その悲劇性に輪をかけたのは、この集団自決が両島に駐在していた日本軍の隊長による「命令」だったとされてきたことだ。》と記されているのも、どう見えるだろうか。「最も大きな悲劇は、軍の責任にされたことだ」というふうに、読者に思わせる効果が、あるのではないか。《「命令」を出したとされた隊長もそうした事情や、住民を自決から守れなかった責任から沈黙、不名誉に甘んじていたのだ。》と書かれているのも、そのことを示していると思う。
 事実上の「痛ましい事件だった」という言葉のほか、犠牲者の悲しみに関係した言葉が、ついぞ見られないので、恐らくこの推測は間違いないと思う。この文の次の「が」はレトリックである。つまり、現代文の読解の参考書はこうアドバイスしている。『逆説の「しかし」「だが」などの前は読まなくてよい。その次こそが、重要な主張である。』
 筆者が交代して、産経抄は言論の姿勢が以前よりも良くなってきたと思っていたのに、やっぱり誰が書いても同じなのか、というがっかりした思いに包まれた。
つぶやきの カ・ケ・ラ


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