◆弱者が何かを主張したとたん

 判官贔屓という言葉がある。弱い者、善良でありりつつ権力に潰されたような者を、日本人は褒め、同情する。盗賊でさえ、義賊と称える。
 様々な被害者に対しても、そうである。世間は、気の毒に、可哀相に、と涙を誘い、しばしば支援者ともなる。
 だが、それは、その被害者が、理不尽な苦しみに無言で耐えている「健気」な間だけの話である。
 ひとたびその被害者が、これはおかしい、と訴訟を起こしたり、自説を主張したりし始めたとたん、世間は、この出た杭を打ち始める。「金が欲しかったのか」「生意気だ」と、猛烈にパッシングを始める。
 訴訟や議論の世界に入ったとき、世間は、選択を迫られるのだ。このマイノリティの側につくのか、権力の側につくのか。そして世間は、文句なく、権力の側につくことを選ぶ。
 弱者は弱者のまま、不幸な境遇に耐えてこそ美しい。理不尽にこらえているからこそ正義と認めてやろう。だが、ひとたび自分を主張した途端、おまえはただの反乱者として処罰するのだ。――世間は、そんなふうに、弱者を扱う。
 こんな例は、無数に探すことができる。何も、イラクの中にばかり探す必要もないくらいだ。
つぶやきの カ・ケ・ラ


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