◆「いじめ」と「いじり」

 いじめについては、多くの人の感情と同じものを、私はもっている。
 しかし、それがすべてなのかどうか、はまた別問題であるかもしれない。
 たとえば「いじめ」と「いじり」との関係について、毎日新聞の「余録」が2006年10月17日付けで記していた。露骨にいじめることはなくとも、何かと笑いものとして取り上げることをいうのであろう。元は芸人用語であるともいう。
 それによると、「いじり」は「いじめ」より恐ろしい面をもっているという。
 正直に言うと、「いじり」はある意味で、教室では普通に行われている。私も、する。ただ、それはその子の人格を貶めるためではなく、その行為を止めさせるためと決めている。だから、同じ子が、その行為を止めるために努力していたり、勉強で頑張ったところを見せたりすると、今度は全員の前で大いにほめる。
 だが、中には、こんな子もいる。
 他の子の悪口を言ったり、ちょっかいを出したりすることを楽しむのだが、授業中、算数の問題の中に、自分の名が例に使われただけで、もうふてくされるのである。もちろん、たんなる人物の名として用いただけであって、○○君は公園へ向かって分速60メートルで歩き始めました……程度のものであって、ことさらに茶化すような内容ではない。
 そういうこともしてはならない、という人もいる。人の名を持ちだしただけで、不愉快になる子もいるのだ、と。それも一理ある。だが、具体的な名を持ち出すことで、和やかな雰囲気が作られることがあるのも本当だ。それは、ひとえにクラスの雰囲気と、出された子の気分や性格にもよる。
 こういうのは、たしかに「いじり」なのである。道化役に持ち出すのであるから。
 肩をぽんと叩いても、うれしい励ましになる場合もあれば、セクハラや暴力になる場合もある。悪いケースがあるならば、一切しないのがいい、というのも一つの考え方である。しかし、一律に肩に触れてはならない、では、感情を出さず、人格がぶつかれないままですべて終えよ、というに等しいこともある。
 たしかに、苦い経験もある。その子に問題がある場合でも、その子は、親に嘘を言い、教師にひどい仕打ちを受けた、と言うのである。親は、子どもの言うことしかもう信用しない。宿題をしていないことを諭しただけなのに、とんでもない問題になっていくことが、ありうるのだ。
 いくらかのことも、互いの許しの中で収まり、教師と生徒とが互いに成長していくようであるのが、望ましい。それが、教師は完成した存在であり、生徒は一方的に陶冶されていかなければならないという図式を教師側がもつときに、教師が生徒をいじめるということが起こってしまう。子どもたち同士の関係も、崩していってしまう。
 褒めることは大切だ。自殺した生徒は、先生に、褒められていたのだろうか。その点が、知りたいと思う。
つぶやきの カ・ケ・ラ


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