◆健全なナショナリズム アテネ五輪が閉幕したその後に届く産経新聞には、巧妙な罠が仕掛けてあった。 まずその社説「主張」。 日本選手のメダルラッシュを持ち出して、それは「家族愛」のせいだと、ふだんの社説一つ分を使って強調していた。ジェンダーをはっきり区別しなければならないと焦るこの新聞社は、どんな文脈でも突然、ジェンダーフリーを攻撃することがしばしばあるが、このメダルの数々を、男は男らしく、女は女らしくの精神で飾れば、自分に有利になると考えての副題≪共通する「厳父」の存在≫であった。「共通しない」例もあるだろうに。 後半一つ分の副題はずばり≪国旗・国歌に敬意払う≫であった。「日の丸を見て、君が代を聞き、感激した」という選手の言葉を引用した。それがかなり新聞のコラムニストと違う場所を見ての発言だろうということは容易に想像がつくが、その言葉尻が利用されていると言わざるをえなかった。 「健全なナショナリズムがこれらの若者たちの心に育まれていることが感じられた」というその文末部分は、「こうした傾向が、スポーツの世界だけではなく、あらゆる分野に、自然に広がっていくことを期待したい」と結ばれていた。 その「あらゆる分野」とは何だろうか。 答えは、同じ日の別のコラム「産経抄」にあった。 唐突に「忘れてはいけないこと」として「五輪報道フィーバーで忘れかけていた」と切り出したのが、なんと特攻隊の話なのである。 私は何度でも繰り返すが、特攻隊というのは、東大生になるくらい困難なエリートたちの集団である。これを戦争の象徴として美化することは、武士というものを切腹ということで美化するのと同様である。 この産経抄は終わりのほうで、《アテネ五輪の日本メダリストたちには共通した対応がある。それは「みなさまに感謝します」という言葉だった》と述べている。これを、特攻隊員と重ねて響かせるのである。 彼らが若者たちの心に育ませたい「健全なナショナリズム」とはどういうものだろうか。 それは、日の丸と天皇、まとめていえば日本という国家に絶対服従を誓い、そのために喜んで命を捨てる精神である。 この日の産経抄は、確かに坂口安吾を引用して、「戦争は呪ふべし、憎むべし。再び犯すべからず」と語らしめている。だが、これは坂口の言葉に過ぎず、産経新聞の主張するところではない。特攻隊を持ち出すなら、そういうことを二度と繰り返してはならない、というフレーズを予想したいのだが、彼らは決してこの言葉を持ち出さない。あくまでも坂口の引用である。この引用には、次の言葉が続いている。「その戦争の中で、然し、特攻隊はともかく可憐な花であったと私は思ふ」というものだ。この場合の「然し」は、前半をだしにして、後半を強調したいための用法(ベネッセの表現読解国語辞典によれば「客観的に見て、予想ないし、期待されることとは反する内容」を展開する逆接の接続語)である。 特攻隊をもう一度やってほしいのだ。無邪気に日の丸を振る選手や応援団を、そのために活用したいのだ。 因みに、「ナショナリズム」とは、「国家主義」とか「愛国心」とか訳される言葉である。彼らは「国民性」というおとなしい訳語を想定させたいかもしれないが。 |