◆言論の封殺 その都度理屈を聞けば、そうかなと思えることがある。 思うに、理屈というのは時折そのように、一貫した原理に基づく思考とは異なるとせざるをえないものとなることがあるものだ。 たとえば、一方では、企業買収の話から何でもカネでどうとでもなるという拝金主義を非難する新聞が、日本からカネを援助してもらっている国が日本を批判するとはけしからん、内政干渉だ、と語る。そこに一貫性があるようには見えない。その都度、つねに自分が正しい――相手が間違っている――という前提から理屈を形成しているかのようでさえある。 朝日新聞と産経新聞が社説上でしばしば議論をし合う。言論活動のように見える。だが、それは対等な言論であるようには見えないことがよくある。このたび朝日側が《産経社説 「封殺」の意味をご存じか》という社説で告げた。「産経は新しい歴史教科書を批判する朝日のことを言論の封殺だと呼ぶ。だが、問題があるという指摘をしたのは事実だが、封殺したことはない。一社だけを批判することを産経抄は封殺だとも呼ぶが、朝日一社をつねに批判してきた産経のことをも、朝日は封殺だと呼んだことはない。新しい歴史教科書を宣伝しているという朝日の指摘を、産経は事実誤認だと言うが、産経は新しい歴史教科書を製作した側であることに違いなく、この教科書には問題点があるという(おそらく客観的に見てそれなりに触れる必要のある)点に触れた記事を全く書かないのでは、宣伝してないとは言えないのではないか-」 いろいろな背景があるだろうが、教科書問題の内容はさておき、言論という問題についてのこの朝日の指摘は肯ける。つねに自分こそ正しく、自分を批判するものは言論の封殺であり、自分は相手を封殺など微塵もしていない、そう見えるのは相手が悪いからだ。こういう姿勢こそ、言論を封殺することそのものであるわけだが、具合の悪いことに、当の側がそのことに気づかないからこそ、こういうことを正論だと信じて疑わないから、なお質が悪い。 言論の問題とは、そのように、言葉ではなく、人の生き方や立場そのものに関わる問題となるものである。 なお、その後この朝日の言明に対して、産経側は黙殺の構えを貫いているように見える。そのどころか、教科書問題として別のことをもちあげ、朝日は著しく「モラル」に欠けると非難している。扶桑社が検定に関して「違反」行為をしたことには、触れることのない産経が、である。 これは、健全な眼差しをお持ちの方には、もはや言論ではないとして映ることだろう。 |