◆ふんわり包むのが愛だと言う

「気のせいだろうか、米国政治で宗教が異常な程にホットな争点になり始めた一つの節目は9・11同時テロだったように思える。信心深いのもいいけれど、超大国の政治がイスラムとキリスト教の原理主義対決をあおるようでは困る。愛と調和の心でふんわりと世界を包み込む政治を実現してもらいたい」と、2004年7月23日付余録にあった。
 コラムの中央辺りで、映画「パッション」のことを「激情」と誤解している(というより単なる無知)書き方も先にあったが、引用したこの末尾部分もおかしい。
 まず前半。多くの日本人にとって、あのテロがキリスト教対イスラム教の宗教対立にしか見えなかったことから、ああアメリカでは宗教が政治の争点なのだ、というふうに思っただけのことである。アメリカではずっと、もちろんそれは政治的意図を踏まえてのことでもあるわけだが、宗教は政治の争点であった。2001年の秋から急にそうなったのではない。そのときから、日本人の目に、宗教というものが見えたというだけのことである。
 後半。愛と調和でふんわり包むのは、それはそれで一つの世界観ではあるが、この筆者の、あるいはぼんやりとした多くの日本人の宗教観でしかない。「愛」が「正義」や「聖」と硬く結びつくとき、それはいみじくもこの筆者が知らずに使った言葉「激情」つまり「熱情」や「審判」といった強く厳しい形をとる。少なくとも、キリスト教やイスラム教が範としているのは、そういう「愛」である。
 ふんわり包む「愛」というものが役立たなくなったことは、この筆者にしても、昨今の教育問題と家庭問題を眺めれば、感じられるのではないだろうか。さらに言えば、御自分の夫婦や子どものことをお考えになるとき、果たして「ふんわり包む」ことを筆者ができているのかどうか、お聞きしたいと思う。
つぶやきの カ・ケ・ラ


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