◆プログラムされた遊び こうすれば子どもが喜ぶだろう、という思惑ばかりの世の中。 昔の遊び教室を開こう。土曜日には大人がボランティアとして、子どもに遊び場を提供し、監視していてあげよう。子どもを集めてスポーツチームを作ろう。 これらは、ビジネスに比べて純粋なようだが、それゆえに褒められるべきかどうかは、別である。 はたしてそうだろうか、と私は疑問に思う。子どもは、子どもだけの世界でいることができなくなっているように見受けられるが、それでいいのか。 もちろん、大人がノータッチで危険な目に遭わせるのをほうっておく、というのは困る。しかし、すべてを親の管理の下において、子どもがその枠の中だけでしか居られないとしたら、苦痛ではなかろうか。そして、子ども自身が考えて乗り越えていくという習慣を、奪いはしないか。 子どもを閉じこもらせようとしているのは、計算高いつもりのおとなたちではないのか。 大人たちが、遊びをプログラム化、計画化している。それは、もはや「遊び」という意味を踏みにじっているようにも見えるのだが、どうだろう。 遊びの名の下に、古い洞窟で酸欠に倒れた例もある。実に痛ましい。とんでもないことをやらかすケースもある。しかし、子どもだけの世界を信頼できない大人たちによって、自ら遊べない子どもたちを生産していくとなると、ある意味で、すべての子どもたちを殺すことになりはしないか。 話は極端に過ぎるかもしれないが、子どもを不自由にしている、束縛している、という意識だけは、片時も忘れないほうがいい。 |