◆JRという辞書に「すみません」の文字はない

 朝8時から仕事に出て夜10時前に終わる。JR駅に来て愕然とする。人身事故発生。それも、乗るはずの電車だ。
 〜時〜分発の○○行きは、途中、約10分遅れて運行しています――アナウンスが入る。自動の声ではあるが、それと表示が頼りである。「遅れは変わることがあります。案内にご注意ください」と、さらに自動の声のお姉さんが話す。
 駅からは、そのアナウンスというのが入るが、事故が起こりましたということしか話さない。こうなると、信頼するべきは、お姉さんの声とその表示だけだ。
 だが、しばらくしてから、とんでもなく時間がかかりそうだというふうなアナウンスが、肉声でなされる。
 私は、場合によっては、乗り換えによって最終電車に間に合わないかもしれない、というリスクをもっている。それで、JRがしばらく動かないのであれば、他の交通機関を利用するかどうか、算段する。タクシーなどを駆使して帰らなければ不可能な場所なので、千円単位の出費を覚悟の上で考える。だから、駅の〜分遅れという放送と表示を頼りに計算していたわけで、それが、今更とんでもない時間がかかるという知らせは、裏切られた気がした。もちろん、人身事故であるから、その可能性を考えないわけではなかったが、事故の程度が分からない以上、すぐに走り出すというケースも、過去にはあったのだ。
 改札に戻り、そのことを訴える。
 と、後ろにベテランが数人いる中で、若い駅員がアナウンスしているらしく、応答に出る。
 Tというその駅員の対応の言葉は、ばかばかしくて、会話の詳細を記すつもりはない。
 駅員の主張は、こうである。電光表示は嘘である。だが仕方がない。とくにそのことを違うと知らせる必要もない。そのために、アナウンスに注意しろと放送を入れている。電光表示について注意を促す必要などない。
 しかし、当初は、電光表示はたしかに10分遅れ、とあり、放送のほうは、人身事故が発生した、しかなかったのである。これだけの情報では、事故が起こったことしか分からないし、放送で電光表示の指示について触れていないがゆえに、表示を信用するしかないのではないか。
 だが、若い駅員は、まったく客の困惑を省みない。話す姿勢も、いくぶんふんぞり返っているように見え、すみませんとか、お困りでしょうという心は、微塵も見られない。
 もちろん、その口から、「すみません」という言葉は一度もこぼれないし、出てくる気配もない。「おそれいります」「申し訳ありません」といった、民間企業の窓口からは反射的に出てくるような言葉は、ついぞ一言も発されなかった。
 しかも、他の乗客も質問をしたくなる場面ではあるので、そばに来る。その駅員は、もう私となど話す必要はないと判断した。口を開きかけた私を、まるで「あっちへ行け」とばかりに制した。他の客が質問をしたがっているのだから、「どけ」という雰囲気である。もう、私の存在など眼中になかった。うるさい客をあしらっただけの駅員であった。最後まで、冷たい視線を高いところから発しているようにしか感じられなかった。
 背後のベテランたちがのんびり構えているのが見えた。客の応対には興味がないようだった。
 私は憤りを呑み込んだ。ここで暴れないだけ、まだ理性があると言えるだろう。
 一時間、待った。かろうじてその日のうちに帰ることができた。電車内では、いくらか客を気遣うアナウンスが流れていたが、それでも、「人身事故のために遅れが」の言い訳を、厭きるほど繰り返した。そして、「すみません」的な言葉は、やはりなかった。「ご迷惑をかけました」だけであった。すべて、事故のせい、事故にあった人のせいであって、JRの責任ではない、ということをひたすら強調して言い聞かせようとしてるのである。
 それは、どこかで聞いたことがある響きであった。公教育の地位ある人が語る言葉に似ていた。
 公教育にある地位ある人々は、決して「すみません」とは言わない。それは、裁判で敗訴したときに初めて使う用語なのである。どんな至らなさが指摘され、信じられないような失敗をしたとしても、「すみません」は使ってはならないルールがあるのだ。
 とすれば、今回のJRのTという駅員もまた、そのようなルール、あるいはマニュアルに、従っているだけのことであろうと思う。あの、福知山線の尼崎における事故のときにも、やはり同様であった。私は確信する。JRには、「すみません」という言葉を客に対して言ってはいけないルールがあるのだ。
 人間らしい対応を期待したほうが、間違いなのだ。JRは、公教育と同様、官僚制の中にどっぷりと浸かり、いわゆる殿様商売をしている点では、国鉄時代と何も変わってはいないのである。
つぶやきの カ・ケ・ラ


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