◆国立ハンセン病療養所 2004年1月、国立ハンセン病療養所など六つの施設で胎児や新生児の標本114体があることが明らかにされた。半世紀以上前の出来事のようだが、生まれた子どもを職員が殺していた疑いが強い。こうしたことが行われた実数は、この数にはとどまらない可能性が高い。 世間は、怒りに包まれた。 当事者にどういう思いを抱いたらよいのかさえ、私には分からない。この憤りは何なのかということも、はっきり言葉にできない。 だが、だが、である。 半世紀前の職員たちは、おそらく、「そうすべきだ」「こうするしかない」との思いで行っていたのだろう。そうでなければ、気軽にできることではない。職務命令だったわけだろうし、それしかないとの信念でやったのではないかと想像する。欲望や衝動、金目当てや怨恨による犯罪とは、やはり違う背景がある。 これを「確信犯」という。信念に基づき、自らの行為を正しいと信じてなされる犯罪のことである。 歴史は、かつての正義を否定するようにも動くことがある。しかし当時の法律ではそれは裁けなかった。当時はそれが正義だった。そんなことは、幾らでも探し出すことができる。 私たちが今、正義と信じてやまない主張も、やたら沸き起こる義憤にしても、あのハンセン氏病の人々に対してなしたことと、同類のことと見なされる時代が来ないという保証は、どこにもない。 私もまた、同じようなことをしているかもしれない、と思う。環境や資源に関してでも、他国の人々に対してでも、身近な人、子どもたちに対してでも、たぶんやっていると思う。 「こうするしかない」という主張を繰り返す人々がいる。私はそこに与したくはないと思う。 少なくとも、そこに「自由」があるとは見られない。自由主義が最善かどうかさえ判断停止をしておこうとは思うが、それは現今の社会の重要な原理であると理解している。その中で、自分は自由主義を信奉すると公言しながら、「こうするしかない」との結論を下す人を、私は信用しないようにしている。 |