◆『ブラックジャック』と『名探偵コナン』 月曜夜7時から、讀賣系でアニメが2本続く。『ブラックジャック』と『名探偵コナン』という、人気のある番組だ。 前者は、定評のある手塚治虫の代表作の一つを、息子の手塚眞が制作しているもので、原作の味を十分活かした構成・演出となっているように感じられる。 だが、テレビというメディアでの制約だろうか、どうにも偏りがあることは否めない。つまり、患者がほとんど皆助かってしまうのだ。連載マンガの第1話におけるアクドという、金持ちのならず者は、たしかに話の展開上助からなかった。しかし、ブラックジャックの物語は、しばしば、心やさしい人の犠牲があるがゆえに、私たちはそこから心にずっしりとしたものを感じるということが多かった。ブラックジャックの手術の成功率は9割を切っているというデータもある。 少なくとも、原作では犠牲者となっているのに、テレビ放送ではそれが奇跡的に命をとりとめるという構成は、いくつもいくつもある。 フィクションをお茶の間に届けるメディアにおいては、カタルシス効果が中心とならなければならないのだろうが、これでは、原作が訴えようとした「怒り」のようなものが、まるで響かず、つねに「よかったね」で終わってしまう。 また、後者は、推理としての面白さと、正体がばれないかという、身を隠している主人公の問題のスリルなどがあって、人気を呼んでいるけれども、こちらはほとんど毎回死者が出る。その現場にたいてい主人公たちが居合わせるという不自然さもさることながら、この犠牲者のために、誰一人悼む心を見せないという極端さである。殺人が、謎解きのゲームの素材になっているだけで、家族や配偶者でさえ、涙一つ見せないのが通例、そして次の瞬間から、犯人探しの推理ゲームが始まるのである。その死体を小学生集団までが取り囲んで見下ろしているシーンの、なんと多いことか。 こうなると、はたしてアニメだから死者を安易に出さない、などという理由も成り立たない。 ブラックジャックのように、本来死に深い意味を見いだそうとするテーマをもつアニメと、コナンのように、死をゲームの素材としか見なさないアニメとが、並んでいる。かたや、犠牲者を出さず皆救い、かたや、犠牲者は話のタネとして誰にも悲しまれない、そういう展開のアニメが2本続くこの時間帯、続けて見ると、実に複雑な気分になる。そして、その根は、どちらも同じところにある可能性があるのではないか、というふうにも思えてくるのだが、どうだろうか。 私たちは、ここから、たとえば「いのち」についてなど、何か考えを及ばせ、広く、また深く、考えてみることはできないだろうか。 |