つれないしうち
2003年1月8日

 仕事始めまでは、電車は通勤客で溢れるということがありません。ですが、二人掛けの椅子も、一人が座っているとそこへは座りにくい感じがします。中には、わざわざ通路側に座り、窓側を開けて座る人がいます。まるで、ここには誰も来るな、と言っているみたいに見えるのは私だけでしょうか。おそらく、そうした心理が働いているものだと思います。わざわざそれを越えてまで座ってくるのはしにくい、ということが想像できないはずはないと思いますので。
 なんともつれないしうちに思えてしまうのは、私だけでしょうか。
 ああ、またこんなことを言い始めました。私は、自分がしていることは棚に上げて、しばしば世の中の悲しさをつぶやきます。だからこのコラムは「つぶやき」というのです。自分の立場を省みず、ただぶつぶつと人が悪いみたいに呟くのですから。
 いつもマンションで悲しい思いをするのは、たとえば二基あるエレベータのボタン。自分は一つにしか乗らないはず。だのに、二つボタンを押して両方を呼ぶ人がいること。もうほとんど無意識的に、つねに二つ押す人のことも知っています。先日は、家族がわざわざ二つに分かれて乗って、どったが先に下に降りるか競争して遊んでいました。私はそのとき、一階から最上階まで上がり、また二つとも下りてくるのをただ寒いところでぼうっと待つしかありませんでした。
 このように、想像力が欠落している人がいるのは事実です。
 学生時代、私は部屋に電話を敷くことができないでいました。なにせ大金がかかるのですから。親との連絡も、手紙で普通十分でした。必要なときには私からかけます。携帯電話を使う今の若者は、そんな生活は想像もできないでしょう。ですがほとんど困ることはありませんでした。歩いて5分近くかかりますが、最寄りの駅まで行くとやっと公衆電話がありました。そこには二つのボックスがありました。一つはカードと現金と両方が使え、一つはたしかカード専門だったと思います。私は、カードも高価だと感じていたので、手に十円玉を握って電話のためにそこに来ました。すると、一人の人がボックスにいました。その人は、テレフォンカードを使っています。カードはどちらも使えることになります。その人は、わざわざ(と私には見えました)現金と共用のほうの電話機に、カードを入れて使っていたのです。現金を手にした私は、もう一つ空いているほうの電話機、つまりカード専門機は、使うことができません。その人が終わるのを外で待つしかありません。しかしその人は、カードを使っていますから、ずいぶん長電話をしていました。カード専門のほうで話せば、現金で話そうとする人のためにももう一つを空けておくことができるという想像力は、残念ながらありませんでした。いや、そんな想像力を期待するほうが、無理なのだろう、と今の時代なら思います。
 障害者用の駐車スペースに車を留めることのできる神経が、残念ながら私には分かりません。スーパーなどでも、公共施設でも、車椅子マークの場所には、いつも車が満杯です。実際に障害を負った方がすべて利用しているとは、とうてい思えない状況です。そこは店や施設の入口に近いところです。便利です。だから平気で留めるのでしょうか。でも、そこを自分が占拠して、もしも後にそこを必要な人が来たとしたら、どうなのでしょう。いや、そんな人はめったに来るものではない、と高をくくっているのでしょう。高をくくっているから、交差点近くや坂道にでも平気で駐車できるというのでしょうか。役所の横にある現金自動支払機の前には、いつも車が留まっています。そこには私の見る限り、同じ看板が三つ立てられています。往来のために危険なので駐車するな、と。しかし、日本人はこれほどに字が読めない人が多いみたいです。車椅子はもとより、健常者も車道の真ん中を歩かなければ先へ行けないのです。そのことを想像しろというのは、今ではたぶん、全員に偏差値70くらいを取れと要求しているようなものだ、とお叱りを受けそうです。
 子どもの集まる公園でタバコが吸える神経が理解できません。煙が何十メートルか先にまで届くということは、おそらく想像できないのでしょう。しかも、タバコを吸う人に限って、ベンチに座っています。お願いします。タバコを吸っても健康なくらい元気な人は、安易に座らないでください。タバコの煙で害を受けるほど体が弱い人が、ベンチに座ることができないのです。しかも、健康増進法のゆえにタバコは建物の中で吸ってはいけない、と一見弱者の味方のような態度をとりながら、ほとんどの施設では、建物の入り口の横に、喫煙コーナーを設けています。たしかに建物の中には煙がありませんが、煙を潜らなければ、その建物に入ることができません。想像力など、誰ももたないのでしょうね。言うまでもありませんが、街を歩きながらタバコが吸えるというのは、他人の立場に立って考えることが全くできない人種であると言っても差し支えないでしょう。想像力のあるなしで言えば、最も極端なケースと言わなければならないでしょう。
 害を受ける側からすれば、いずれもつれないしうちです。
 
 想像力が欠けるとなると、人間は決まって、自分が何かを独占しようとします。自分の欲とかわがままとか呼ぶかどうかは保留しておきます。ともかく、誰かと分かち合い、ほかの人も喜ぶように、と考える想像力をもっている人は、独占するようなことはありません。上に挙げたような例は、ほかの人を追い出し、排除する実例です。
 私たちは、もっと共に生きることを目指してよいのではないでしょうか。
 
 そう言うと、反論があるはずです。綺麗事を言うな、誰だって自分が可愛いのだし、自分が生きることを優先しているのはお前もそうだろう、恰好つけるな、と。そして、こうした想像力の欠落を指摘する文章に出会って、ああ自分はそうかもしれない、と沈思する人は、もともとそんなことをしない人ですし、している人は、自分はそうじゃないと自覚することがない、そういう真理も知っています。ですから、元々良心があり、自分が悪いのではないかとお嘆きの方々にだけ、私は申し上げたい。自分を殺す必要などありません。私たちは、与えられた恵みをただ感謝して受けるくらいしかすることがありません。ただ、人を排除したり侵害したりしなようにさえチェックしておけば、さしたる間違いは犯さなくて済むに違いありません、と。
 
 つれないしうちは、しばしば自分が正義だと語る者が、自覚することなくやっているものです。
 アメリカとイラクはキリスト教とイスラム教との対立だと決めつけ、日本の宗教観は寛容に満ちた素晴らしいものだと高らかに謳う産経新聞の例の「産経抄」(1月3日付)。自分では、正義を語っているつもりです。つねに、軍国日本の姿が理想であり、今の日本を嘆かわしいと言っているこの筆者は、自分が正義そのものであると信じてやみません。
 そしてこの産経抄は、ついに過激さを増してきました。初詣は日本人の習慣に基づく民俗、つまり宗教を超えた伝統文化であると言い、それに比べれば憲法は紙に書いたものに過ぎず、総理大臣が靖国神社に参拝することが憲法違反だというなら、憲法のほうが間違っているのだ、とはっきりと述べています。(1月7日付)
 私は冬休み、私は担当教師が回らないという理由で、臨時で2時間社会科を担当しました。社会科は資料がつねに変わることもあり、教える科目としては私は苦手としているのですが、今回、それは第二次大戦の始まりから終わりまでにあたる箇所だったので私にとっては話しやすかったように思います。ここなら話せる、と。
 話しているうちに、その時代の空気がだんだん近くに漂っているように思えてくるのでした。そう、今、気づくのです。あの時代の空気を、産経新聞は連れてきていることに。
 そしてその産経抄、ついに1月8日には開き直るに至りました。怖いです。山本夏彦の文章を引いて、次のように締めくくったのです。
 「警官でも赤軍派でもどっちでもいい。血だるまで息たえる瞬間をリアルタイムでみたいのです。ビデオではいけない。安全地帯で見物できる人生無上のスペクタクルです。我々はそういう邪悪な存在なのです」(『百年分を一時間で』文春新書)。平和がどうの暴力がこうの、きれいごとは言わないほうがいい。
 一部の特権階級が、利益を独占して、まだ純粋な気持ちになりうる若者を、一方的に死へ追いやる大人のつれないしうちを、もう見たくもありません。また、自分もしたくないと思います。それは、分かち合うこととはもっとも遠いあり方であるせいもあって。

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