宅間守はここにいる
2003年9月11日

 殺人犯に死刑判決が出される。死にたくないので殺人犯は弁護人に控訴を申し出る。被害者遺族は、人を殺しておいて自分が死にたくないとは許せないという感情をもつ。
 これが常識だと思っていました。けれども、この常識は真理ではありませんでした。この常識には前提というものがあったのです。殺人犯が死にたくないと思うゆえでした。もしも自暴自棄になり、自分なんかどうなってもいいと思う者が殺人事件を犯したら、ある意味で死刑は望むところでした。死刑制度は犯罪の抑制になるという考えがありますが、それを嘲笑う一つのケースとして想定できるものでした。

 殺人犯に死刑判決が出される。犯人には何の反省もなく、早く死刑にしてほしいと思っている。自分が人を殺したのは当然のことと考えており、逆にもっと沢山殺せなかったことを後悔している程度だ。法律だか何だか知らないが、おまえは悪人だから死刑だなどと言われる筋合いはない。法廷でも暴れて、退廷を命じられるように仕向ける。こうして、うだうだと長い判決文を聞く手間も省けた。控訴なんぞしたくない。
 こんな犯人だったら、どうなるのでしょうか。おかしなことが起こります。

 ふつう、弁護人は、犯人の刑を軽くするのが仕事です。もちろん、犯人が強く控訴を願うことになります。そのために弁護人は控訴を計画します。犯人をなんとか助けたいという思いがあるからです。しかし遺族は死刑にしてほしいと願うので、弁護人の控訴は敵のように見えて仕方がありません。
 他方、自棄的な犯人は、控訴を願いません。再び法廷でぐだぐだ言い合うのもいやだし、また自分に向けておまえのした悪事は……などという説教を聞きたくもありません。死刑判決が出たのはこれ幸い。控訴などまっぴらごめんだ、と考えています。
 この場合、弁護人は、控訴をしないことが、犯人の気持ちに従い、犯人を助けることになります。遺族も控訴をするなと思うし、控訴をしたいと思う人は、誰一人いないはずです。が、弁護人は、控訴をするように犯人を説得しました。これは法律的にも問題のある判決だ。もっと真偽を尽くさなければならない。控訴をしよう。けれども、犯人は承諾しません。弁護人の一人はこう言います。「犯人は何の反省もしていない。もし死刑になるにしても、自分のしたことが悪かったという思いを抱くようにしなければならない。今のまま死刑が確定して執行されたら、犯人の思ったとおりのスケジュールになるではないか。結局この犯人が勝っただけで終わるではないか」と。ですから、控訴をすることは、犯人を助けるためではなくて、犯人にわずかでも呵責を覚えさせるための機会を作るためだと考えられているのです。
 遺族の側は、とにかく犯人を死刑にしてほしいので、控訴をするなと考えることがあります。そうなると、控訴しようとする弁護人は、遺族から敵視されるばかりか、犯人からも敵視されることになります。犯人が悪を認めるように、というふうに、目指すところはすばらしいにしても、控訴は誰からも望まれないということになります。

 どこか、空しい。まさに確信犯ということですが、通常想定しない犯行状況からすると、通常の弁護とか控訴とかいう概念がまったく通用しなくなるように見えます。
 お分かりのとおり、この例は池田小児童殺傷事件の犯人・宅間守の現在の状況をモデルとしていますが、考えてみれば、この図式は、実はかなり日常的なものであることに気づきます。
 法に違反して罰金を払う人間が、はたして自分のしたことを悪く思い、悔やんでいるかどうか、ということです。「なんで自分だけ罰金なんや。みんなやってるやないか」との呟きは、極めて常識的です。どうして自分だけ駐車違反なのか。どうして自分だけ歩行喫煙で罰金と言われなければならないのか。どうして自分だけ……。
 もちろん、「自分だけ」というのは真実ではありません。そして「みんな」やっているというのも真実ではありません。でも、そういう言い方で言い訳をするのです。「みんな買ってもらっているんだよ。私だけ持ってないの。お願い、買ってよ」と、子どもならよくあることですが、大人も同じことを言っているわけです。
 さらに、罰金をくらった後に、こううそぶきます。「これは自分が悪いんじゃない。世の中が悪いんだ。政治のせいだ」と。これもまた、親のせいだとか金のせいだとかうすら笑っている、宅間守と同じ心理です。
 私たちの中に、宅間守がいる。認めたくないことですが、これは真実です。

光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。(新約聖書・ヨハネによる福音書3:19-21,新共同訳聖書-日本聖書協会)

 せめて、光を知ることによって、闇が何であるかを覚えたいと願います。かの犯人は、光を知らないか、あるいはせいぜい、光を憎むことしか知らないのです。

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