日本の伝統と正義
2004年4月5日

 朝日新聞と産経新聞とが、今やりあっています。東京都が、卒業式の国歌に起立しなかった教諭を処分するという報道に、反対と賛成の意見が真っ向から対立したゆえに、社説やコラムで応酬し合っているということです。
 産経新聞は、公教育の場で日の丸を崇めない行為は国賊だという勢いの主張をしています。朝日新聞は、いろいろな自由があってよいので一律処分は思想統制につながる、と言っています。産経新聞は、子どもたちに国を愛する心を育てるために、日の丸を拝せず国歌に起立しない教師は失格だと断定しています。朝日新聞は、様々な思想があることを子どもに伝えることも必要で、一つの思想を力ずくで教え込もうとするのはよくないことだと言っています。
 
 たとえて言うなら、家族を二つ想定しましょう。
 ある家族は、昔気質の親父がいて、父親の言うことは絶対であり、家族はすべて父親の言明に従わなければなりません。古きよき日本の家族だと父親は考えています。厳格な家長の命令に誰もが従わなければなりません。それが伝統的な日本の家庭だと信じています。何事も、父親が決めた通りに家族が動くのでなければならないとされており、逆らうと厳罰を与えます。家族も、束縛を感じるでしょう。でも、不自由さはあるものの、そういうものだとして暮らしていけば、逆に責任を一人一人が負わなくて済むので楽かもしれません。
 もう一つの家庭がここにあります。父親は、家族の一人一人に自由を与えています。束縛しません。そのために、ときに自由をはき違えた子どもが出て、失敗をします。必ずしも父親を神のように崇める必要はありませんので、奔放な子も現れるのです。でも中には、父親を慕い敬う子もいます。反発する子もいます。それぞれが自分の責任で、自分の生き方を決めていってよい、と父親は考えています。
 前者が、産経新聞の主張する国家像であり、後者が、朝日新聞の主張する国家像のモデルです。
 産経新聞はつねに、朝日新聞が国を否定しにかかっている、と主張し、思い込んでいます。はたして後者の父親は、家族を崩壊させようとしているのでしょうか。誤解があるように思えてなりません。何がなんでも親父の考える通りにすべてが従わなければならない、とするその主張は、どうやら正義感が強すぎて、その押しつけに躍起になっているように見えます。
 朝日新聞は、これしかだめだ、という言い方はしていないように見えます。大きく事態を包んで、いろいろな自由を認めてよいのではないか、という考え方です。もちろん、かつては頑強に主張をこわばらせることもありましたし、意地を張っているようなときもあったと思います。ですが、ずいぶん丸くなったのも事実だと思います。寛容になってきた、とでも言いましょうか。
 右だ左だ、と決めるのは簡単ですが、朝日新聞の方がどちらかというと懐が広く、健全に近い場所に立っているように見えますが、如何でしょうか。
 
 話は少し変わります。
 はたして、父親が神の如く威張っている家庭が、日本の伝統的な家庭なのでしょうか。ここにも、問題があるように感じられてなりません。
 たしかに、武家社会は、そのように男が家長として頂点に立つ秩序を作ろうとしていたし、実際にできていたのだろうと思います。封建制度は、男社会を規準としているわけです。問題は、それのみが「日本の伝統」だと主張してよいかどうか、ということです。
 私は歴史学者でもないし、資料に基づいて語っているのでもありません。いわば無責任な感想に過ぎません。でも、それゆえに発言できないとは考えません。日本でもとくに庶民は、女性の立場が強いのではなかったか、と思うのです。女性が元来太陽であった、という詩的な言葉を引用するまでもなく、女系が重んじられていたこともあるようですし、家庭内では通常、男性が特別威張っているとは思えないのです。それは私の卑近な例からそうだとしか言えないのではなく、たぶん見聞きする様々な場所で、そのように感じているわけです。
 そもそも男性は、「生きる力」の点で女性に敵いません。衣食住さまざまな場面で、女性の生活力に劣るように感じられてなりません。いや、そんなことを言うと、料理人は男の方が上だ、などと言い出す人が必ず出てきます。料理人というのは技術的な立場です。技術の習得に時間をかけることが許される背景には、生活の細々としたことを支える女性の手があってこそ、とも言えます。女性が毎日の生活に手間暇をかけてバックアップする表で、男が料理人としての技術を習得する自由が与えられている、と言うと言い過ぎでしょうか。もちろん、食材を獲得するために男性の手が必要な場合もあるでしょう。力仕事で活躍することができます。だから、女性だけですべてがうまくいくと言っているわけではありませんし、そのゆえにこそ、男女共同という、当たり前のことをわざわざ言わなければならない事態も起こるのかもしれません。
 けれども、日本の伝統を振りかざす一派は、この男女共同という言葉を忌み嫌います。ジェンダーフリーに対して異常なまでに過敏反応をして、毛嫌いするどころか、誹謗中傷をたたみかけて抹殺しようとしています。はては、ジェンダーフリーという言葉が和製英語だからだめだ、と再三主張したりしています。
 男尊女卑が当然だという思想です。それが日本の伝統だと豪語します。その幻想をもつことは分からなくもないですが、それは幻想に過ぎません。幻想を現実の正義として掲げ、その正義に反するものに対しては徹底的に攻撃をしかける――それが危ない考え方だということが、冷静な考え方のできる皆様にはお分かりでしょう。
 
 正義を使うとき、これが当然だから、とすべての人にその枠を強制的に当てはめるのは、一見正しいことのようですが、それで人が動くのでもありません。だからと言って、正義を蔑ろにしてよいという意味ではありませんが、これが正義だと威圧するとき、逆に正義はその反対のものに変質している、ということさえありえます。絶対的な正義というものを自分がもっている、というふうに自己義認してしまうと、人間はその瞬間から、悪魔に変貌してしまうことがあるのです。
 ここからまた、「寛容」という言葉をキーワードとして、また議論しなければならないのかもしれません。今の社会の行く先を考えていくときの、重要な言葉であることには違いないと思います。

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