サンタ校長問題
2002年2月8日-10日

 福岡県久留米市で、「サンタ校長問題」というものが話題になりました。
 西日本新聞によると、2001年12月21日、久留米の小学校の校長先生が、終業式のときに、サンタクロースの姿をして、小学生たちに、自費で購入したチョコレートを配ったというのです。入院したときにお見舞いの手紙をもらったことへのお礼だったそうです。これを見て、ある先生が、「特定の宗教にかかわることを学校行事ですべきでない」と抗議しました。校長先生は、一度配ったチョコレートを、すべてまた集めたのだそうです。
 賛否両論がわき起こりました。却って子どもの心に傷を負わせたのではないか、と校長に同情する意見もあれば、当然抗議した教師のほうが正しく、校長は間違っているという意見もありました。
 たかぱんは、この校長先生の行為についての判断は、できるだけ控えようと考えます。現場の状況も、独りひとりの発言も、正確には知らないからです。ただ、この問題に集まった意見の中に、むしろ驚きを感じましたので、それを述べたいと思います。
 西日本新聞さん、転載の許可を得てはいませんが、二つの意見の引用だけお許しください。


a) PTAに参加し、学校の現実を知る親としてほ「学校は慎重さが人事」と感じており、教師の抗議は当然と思います。
 教師はプ口の教育者。子どもたちの家庭の事情や信教を合めたさまざまな個性に気を配ったうえで、保護者からの苦情をも考えて教育に携わらなければなりません。
 学校は地域の中心であり、子どもや保護者、住民はじめ、社会からも目が向けられており、間違いは許されません。校長に抗議できるような、勇気ある教師に、エールを送りたい思いです。

b) 抗議した先生の判断は正しいと思います。
 クリスマスはキリスト教の行事。先生たちは、子どもたちの宗教まで把握していないはずで、例えば、もし教室にイスラム教や神道を信じている子どもがいたらどうするのでしょう。子どもが深く傷つかないと、だれが言えるのでしょうか。
 「クリスマスだから」と決まった年中行事のように扱うよりも、クリスマスとはどのような行事かを説明したうえで、世界にはさまざまな宗教があることを教える方が、子どもたちの「考える力」や多様な価値観が養われるのではないでしょうか。


 どちらも、四十歳代の主婦の方の投稿です。
 a)の人は、「抗議は当然」として、校長の行為は「間違い」だと断じています。b)の人は、「もし教室にイスラム教や神道を信じている子どもがいたら」「深く傷つく」と述べています。
 この場合、保護者から苦情がきたという背景は報道されていませんから、a)の人の中段は理由にはならないでしょう。つまりこの人は、議論の余地なく校長は間違っていた、と信じています。
 b)の人は、「クリスマスはキリスト教の行事」だから、おそらくクリスチャンより人数の少ないような宗教(この人が、神道を信じているというのは、何にでも手を合わせる一般の人を指すのでなく、よほどあつく神道に徹している信仰者を指しているように思われます)を取り上げて、その子たちが傷つく可能性があるからいけない、と言っています。

 まず、誤解を解かなければなりません。
「クリスマスはキリスト教の行事」というのは事実ですが、「サンタクロースはキリスト教の行事」ではありません。そしてこの校長先生の事件に登場するのは、クリスマスではなくて、サンタクロースです。
 たしかに、サンタクロースはキリスト教に由来するものですが、キリスト教の行事ではありません。それなら、仏教に由来するさまざまな行為が、学校で禁止されてしまうことになります。地域の文化を調査することさえ、不可能になるでしょう。
 つまり、この校長先生の行為は、キリスト教の行為ではありません。したがって、特定の宗教に抵触するというのは、かなり拡大した解釈です。

 次に、子どもたちを傷つける恐れがあるのでやめさせたことを支持することについてですが、残念ながら、日常的にキリスト教を信じる子どもたちを傷つけていることについては、誰も何も気づいていません。
 どうして日曜日に運動会をするのですか。今は少なくなりましたが、どうして日曜日に授業参観をするのですか。幼稚園では、日曜日に、しかもクリスマス礼拝の日に必ず毎年「餅つき」をして出席を強要させます。遠足や電車体験授業などではしばしば神社を目的地に選び、そこで教師は児童たちに、お参りするように指導しています。
 ある低学年の子は、自分はキリスト教を信じているから、と「やんわりと」先生に断って、その強要を絶ったそうです。
 もちろん、多くの保護者に参加してもらために日曜日を選んだ……という返答があることは分かっています。しかし、ここでは宗教の問題を取り上げています。なぜ、信仰するキリスト教の子どもや親を平然と傷つけておきながら、キリスト教の行事ではないサンタクロースを、ある子ども(しかも具体性に乏しい例による)を深く傷つけるという理由で排除したがるのでしょうか。

 たかぱんは、この記事を読んで戦慄を覚えました。
「キリシタン迫害は、今もあるんだ」と。
 おそらく、意見を書いた人も、それを読んだ人々も、自分はそんなことはしない、そんなつもりで言っているのではない、と答えるはずです。そうです。それは、そうなのです。しかし、信教の自由を高らかに宣言している正義者のつもりで、それは「当然」だからと、サンタクロースでさえ正当に排除しようとする心の動きがたしかに存在するということで、キリスト教に対する拒否反応が潜在的にあることが、証拠立てられていないでしょうか。

 考えすぎですか。
 しかし、たかぱんのマンションで、こういうことがありました。
 教会で音楽コンサートをするのでポスターを貼ってよいかと尋ねたら、宗教だからだめだ、と貼らせてもらえませんでした。礼拝でも伝道集会でもありません。創立記念に地域へ奉仕しようと、歌手をお呼びしてのコンサートだったのに、です。
 しかし同じマンションの掲示板に、近くの神社での行事については、初詣や七五三など、しばしば神社行事の案内が貼られています。獅子舞は寄付を求めて各戸を回ってきます。さらに、役場から配られる小冊子には、その神社への献金袋と書面が一緒に挟まれてきます。
 子どもの世界へも、宗教は当然という顔をして入り込んできます。小学校の廊下には、仏教の伝説が大きな絵とともにパネルになり、いくつもいくつも並んでいます。町の図書館のカードには、布袋さんか何かの写真が大きく映し出されています。

 皆さんの身近なところでも、そのように、公的なところでキリスト教の子どもや親の心を傷つけるようなことがありませんか。お気づきのことを、たかぱんまでお知らせいただければ幸いです。

 話は国家や地方公共団体レベルでも同様です。神社の神主がお祓いをして浄めを行う地鎮祭は「風習」として認められ、公的機関が行っても構わないと裁判所は判断しています。しかし、教会では決して祝わないサンタクロースを、感謝の心から校長が持ち出すと、世間は「宗教」だとしてたちまち退けてしまうのです。

 もちろん、キリスト教を信仰することは、世に媚びることでもありませんし、世の中で完全に受け入れられようとする目的でもありませんから、それらが悪だ、と攻撃するつもりはありません。たかぱんが言いたかったのは、自分がキリスト者を傷つけていることにはあまりに鈍感で、キリスト教が大手をふるうことに対してはあまりに敏感な心が、潜在的にあるということに、まず気づいて、どうしたらよいだろうか、と誠実に考え始めていただけたら、という願いでした。
 しかし、そう言われると時々、「人間はそんな完璧な者ではないのだ」と言い返してくる人がいます。そしてその人は、それを理由にして、今までと同じことを繰り返していくのです。聖書が「罪」と呼んでいるのは、まさにこうした態度のことなのです。


 追伸
 2月10日付け西日本新聞の朝刊に、うれしいニュースがありました。  再び、サンタ校長の問題が取り上げられ、ここで取り上げた意見などに対して、読者からの反響が大きかった、というものです。その多くは、校長先生に味方をするような立場だったといいます。その中には、サンタクロースはキリスト教ではないという指摘もありました。
「ああ、やはり昔とは違うんだな」とたかぱんは思いました。豊かな教育が、多くの情報が、人々の心をやわらかく開いていくものだ、と感じました。
 一度もらったチョコを返さなければならなかった子どもたちも、そのときは傷ついたかもしれませんが、こうしたあたたかい人々の支えを受けて、勇気を与えられるのではないでしょうか。 
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パンダ          


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