切ない経済制裁
2004年12月6日-10日

 朝鮮民主主義人民共和国による拉致被害者は、幾らか情報が明らかになってきています。日本に帰国が認められた人も現れましたが、2004年末時点でまだ明らかになっていない方々が沢山いて、不満が渦巻いています。
 被害者やその家族の方々に、外野からとやかく言うつもりもありませんし、何か言える立場でもありません。被害者の側にいる人々をよけいに叩くような、「自己責任」といった言葉を使う人々とは、一線を画す場所にいたいと願っています。
 
 ですが、被害者家族の方々が、かの国への経済制裁を強調すること、しかも政府がもし制裁しないなら力ずくの抗議行動を起こすと主張していることについては、悲しい気持ちで見つめざるをえないのです。
 経済制裁は、かの国の弱者がさらに悪しき立場へ追いやられることにつながります。ただでさえ食糧事情がよろしくないと言われている国です。この上で経済制裁をすると、かの国の子どもたちを中心とした、いわば弱い立場の人々を犠牲にしていくことになりかねないと思うのです。
 イラクがどうだったでしょうか。たしかに元大統領の地位はなくなりました。しかし、一般市民や子どもたちが多く犠牲になったことは否めません。
 
 おまえは拉致された家族をもたないからそんなことが言えるのだ、と突きつけられることは承知です。でも、それでもなお、弱者に対する虐待を強いるようなことには、容易に賛同できないのです。
 いやいや、こうして脅しをかけてでも拉致された人々を返す、あるいは正しい情報を開示するように仕向けるのだ、という説明もあることでしょう。けれども、それでもこれは、ただの報復に過ぎず、しかも方向を変えた報復となるように思えてなりません。
 
 聖書には、「炭火を積む」という言葉があります。
「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして主があなたに報いられる。」(箴言25:21-22)
 
 そんなお人好しはバカだ、と、某新聞がせせら笑う確率は100%です。それでも、わざわざ弱い立場の人々を苦しめるだけにしかならないことを強要するような姿勢に、私は賛成する気持ちにはなれません。なんとか、そうしなくても済む方策はないものかと思案するものです。
 
 
 
  (つづき)

 10日、横田めぐみさんの遺骨と言って朝鮮民主主義人民共和国から差し出されたものが、めぐみさん本人のものではないようだということが明らかになりました。
 当該国の意図的なものである蓋然性は高く、虚偽で押し通せるとしたものとすれば、信頼を失墜させる出来事でありましょう。
 首相は慎重ですが、経済制裁をするべきだという意見が、家族から出るのみならず、一部の勢力もそのように圧力をかけています。
 
 さて、先に記した中で、あるクリスチャンの方のことを取り上げましたが、その中に、その方の信仰を私が測るようなふうに読める表現がありました。必ずしもそうした意図ではなかったのですが、そうとられても仕方のない言い方でなければならなかったことは間違いありません。
 問題は、その方の心の状態などではありませんでした。その方がもし、専ら信仰的な観点から考えて発言しているとしても、それが政治的に利用されることが、問題なのです。
 その方は、その国の人々が自由になれるように、との言葉をどこかで語ったようですが、その言葉を引用した上で、これは優れた「国家観」「外交官的洞察」「政治家的見識」である、と持ち上げていく新聞があったのです。
 このコラム自身は短いゆえか計算のゆえか、この後明確な結論を強く掲げることなく終わっていますが、並行した社説においては、経済制裁をするしかないという結論を主張し、ここでもその方の別の発言を引用しています。
 
 ささやかな願いや祈りさえ、思わぬところで思わぬ目的に利用されることがあります。そして、その利用に対しても、もはやどうにも抵抗できない状況に流れていくということがあるものです。時代は、ほんの少しの傾きから、一方に倒れていくようにもなるのです。


 さて、上の最初の文章を書いて半年あまり立ちました。
 いろいろ物議も醸しました。
 私の見解に、不適切な部分もあったことを自覚しています。
 関係者に対し、非常に、冷淡な態度であったことを改めてお詫び致します。
 見かけに囚われた部分がありました。
 
 切ない気持ちそのものは、私の中にあります。それを消し去ることはできません。けれども、とくにあるクリスチャンの方に対しては、よくない話をしまいました。この苦難の中で闘っておられる方に、埒外から失礼な毒を投げかけたことを反省しています。
 どうしたらかの国の食糧事情がよくなるのか、私には分かりません。それこそ、賢い方の知恵を必要とします。
 そしてまた、どうしたら被害者やその家族が安心できるのか、それも私には解決がつきません。
 だからこそ、この場所から小さき祈りを続けています。
 


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パンダ          


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