虚偽の論法による大衆操作
2003年5月30日-6月5日

 冗談かと思ったが、日教組が「男女混合名簿」というような名称を「女男混合名簿」と言い換えるように提唱しているという。「男女混合名簿」では男児が先、女児が後というイメージがあり、平和教育やジェンダーフリー(性差解消)教育に反するからだ、と。
 ▼教職員向けの授業用参考図書で呼びかけているというから、本気らしい。「男女」を「女男」と言い換えてどんな意味があるというのか。大まじめで提唱しているとすれば、ジェンダーフリーの正体見えたり、ばかばかしいとも何とも言いようがない。
 ▼茨城県筑波山から南へ男女川が流れている。ミナノガワと読むが、同県出身の三十四代横綱に「男女ノ川登三」という巨漢力士がいた。最後は武蔵野の雑木林の野鳥料理屋の客分となって昭和四十六年に死んだ。これらも“女男川”と改名しなければならないのだろう。
 ▼中国語学者の藤堂明保(あきやす)に『女についての漢字の話』という本があるが、「女という字は、なよなよと体をくねらせた、なまめかしい女性の姿を描いた象形文字である」と解説してある。「それが男性の魂をくすぐる女性の本質だ」と書き添えていた。
 ▼そういう、えもいわれぬ女らしさがあるひとを男は恋し、慕うのである。先日、六十六歳の女性に交際を要求してストーカー行為をつづけていた四十八男が埼玉県警に逮捕された。男は二十年以上にわたって恋慕していたそうだ。犯罪はけしからぬが、憎めないところもある?。
 ▼「嬲」あるいは「●」と書いてジョウ=なぶる、もてあそぶ意の字がある。日教組は前者の字はけしからんというのだろう。いま若者にはやるネット集団自殺はなぜか三人でやる。どういうわけか、「●」の字で死んでいるのが多い。

●=女男女を1文字に



 2003年5月30日の産経抄。産経新聞の、比較的個人的な見解の欄です。たぶん朝日新聞(と比較されるのは産経新聞にとって反吐が出るようなことなのでしょうが)の天声人語のようなものなのでしょう。
 強引な論法は、この新聞にとって日常茶飯事のことであり、とりたててとりあげても仕方がないのでしょうけれど、本日のこの産経抄のようなごまかしによる圧力というものには、驚きました。

 この新聞が、日教組を憎んでいるのは分かります。が、日教組は、学校用語であり、しかもその中で男子優先という思想をなくそうという、まさにそのことを表す用語自体に、男子優先の思想が隠されていることに気づいたために、その場に「男女」という順序を適用する言葉を安易に使うことへの反省を提案したに過ぎません。学校で使われない言葉、ましてや歴史上の人物(力士)の名前を変更せよと提唱しているというわけではありません。それを、男女ノ川も改名しなければならないのか、と嗤っています。まったく関係のない事柄に適用できないゆえに、それは奇妙だ、というふうに、論点を変えてしまっているのです。こういうのを「不当理由による誤謬」というのでしょうか。あるいは「偶有性(付帯性)による誤謬」といって、あらゆる属性が事物とその偶有性とに、同様に帰属するとすることに由来する誤りの実例となるのでしょうか。

 続いて、「女」という漢字が男性の手によって作られたと称していますが、それこそ日教組が問題を含んでいると考えている観点であり、産経抄は、有無を言わさず、男子優先しかありえないという立場を押し切っています。

 さらに、ストーカーという犯罪行為を「憎めない」と語り、女であるゆえに被害者であった側の立場を、ほとんど愚弄するような記述を平然と行っています。これを読んだ男は喜ぶでしょう。「そうだ。しつこく追い回すことは、同情されるべきことなんだ」と。

 最後の漢字についてはくり返す必要もないでしょうが、川や力士の話と同様、まったく関係ない事柄を取り出して、なんとか潜在的にも潜む男子優先の思想に楔を打ち込もうとする良心(それが成功するかどうか、あるいは適切であるのかどうかという点からそう言うのではなく、とにかくこれは、虐げられた立場を重んじようとする良心から起こった案であるという意味です)の提案を、なまめかしいだとかストーカーだとかなぶるだとか心中だとかいう例を挙げ続けることより、まさになぶるがごとき言葉で、コラムを終えています。

 産経新聞のような評者であれば、このあと「冗談かと思った」とか「産経新聞の正体見えたり、ばかばかしいとも何とも言いようがない」とかいうふうに切り返して、嗤ってコラムを閉じることでしょう。ですが私は、そんな気分にはなれません。
 故意に論点を変更していくのは、この新聞に特徴ある論調ですが、読む側は十分に惑わされます。誤謬を誤謬として笑うことができるのは、漫才の特徴ですが、実生活での論評は、漫才のような舞台とは違います。誤謬であることに気づかないで、そうと信じ込まさせていきます。「衆人に訴える論証」として人々を扇動する、「感情に訴える誤謬」の部類でしょうか。世間あるいは大衆をそのようにして、感情的な部分から操作していくということは、恐ろしいことです。恐ろしいことに、新聞社自身は、そうした自覚なしに行って平気でいる、ということです。ヨゼフ・ゲッベルスのような確信犯も怖いですが、この無知による加害というのは、さらに怖いものがあると考えます。
 歴史上の経験からも、こうした操作の流れは、食い止めていかなければならないと思います。

 いずれにしても、新聞というものには警戒しなければなりません。
 ある本で、インドネシアのムスリムがこんなことを述べていました。
 日本の情報社会は、送られてくる情報に、それでいいのか、と問い直し自らの意思で選択することがない。実に不思議だ。




追伸
 6月5日、この問題について、産経新聞の同じ欄は、さらに無関係な、無根拠である事柄を持ち出して、「言語道断」という論拠のみで、この問題に対する世論を誘導しようとしています。こうなると、たんに自分のしていることが分からない、というよりも、明らかに、操作しようとする意図が丸見えになってきたように感じます。
 私たちは、ますます警戒の色を強めなければなりません。

 五月三十日付で、日教組が「男女混合名簿」を「女男混合…」と言い換える提唱をしている愚挙について書いた。それには反響が大きく、東京・大田区の読者T氏からは「事態はさらに進んでいる」と指摘したファクスをいただいた。
 ▼それによると、いま大田区内の区設掲示板には「ジェンダーフリーフォーラムinおおた」という催し(六月十四、十五日)の通知が張り出されている。その文中には「変わりゆく社会と女男」「女男が自分らしく働く環境…」と表記され、女男に「ひと」「みんな」とルビが振ってあった。
 ▼主催は大田区立男女平等推進センターであり、共催も大田区役所の部署である。ということは区民税や都民税を使って、この「女男」平等行事や運動を催しているということだろう。確かに“事態”は進行していた。
 ▼いわゆるジェンダーフリー(性差解消)教育という名のバランスを欠いたフェミニズム思想の横行は、目にあまるばかりである。ジェンダーフリーのシンボルの一つはカタツムリ、雌雄同体で男でも女でもない。もう一つは皇帝ペンギン、卵を産むと母親はいなくなり、雄がそれを育てるからとは何をかいわんやだ。
 ▼NHKの大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』が苦戦しているという。視聴率は10%台の前半をうろちょろしている。武蔵役の市川新之助の目をむく演技が一本調子のせいもあるが、もう一つ、大きな理由はお通の役どころの新しがりにあるらしい。
 ▼吉川英治原作は“しとやかで耐える女”だった。ところがお通のイメージを壊し、「タケゾー」と呼び捨てにするような現代風の行動的な女性に変えてある。いってみれば、ジェンダーフリー・ドラマが視聴者にそっぽを向かれているのだ。
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