レシートよかったですか考
2005年9月17日


 コンビニに限ることではありませんが、店員の言葉に思わず首をひねることがあります。
「千円から、お預かりします」は、盛んに指摘されるようになりました。それでもなくならないですけれど。
 
 私が、お釣りを受け取り、レシートをもらおうとそこに立っているとき、店員が言います。「レシート、よかったですか?」
 言いたいことは、「レシートはいらないのですか」という意味のように聞こえますが、それはどうにも変に聞こえます。私が急いでその場を立ち去ろうとでもしているのならいざ知らず、私はレシートを受けようと、お釣りを取り終えてもそこに待っているのですから。解せないのです。
 
 関西では、たとえば電器店で商品を見ていると、店員に時折こう声をかけられます。「なんでした?」
 何をお求めになるつもりですか、というふうな意味であろうが、私は最初、それが気持ち悪かったものです。まだ私は、その店員に何かを頼んでいたわけではありません。初めて見る人に、いきなり「何でしたか」と聞かれても、どう答えてよいか分からなかったのです。
 
 しかし、このレシートについては、それよりも奇妙に感じて仕方がないのです。
 くり返しますが、店員が、レシートを渡そうとしたとき、客がそれを取ろうとしなかった、という場面ではないのです。私などは、レシートをくれとばかりに掌を差し出しているわけですが、それが視界に入っていながら、「レシート、よかったですか?」と店員が言うのですから。しかも、レシートをカットしようともしないで。
 甚だしいときには、手を差し出した私の目の前で、レシートをくしゃくしゃに丸められたことがあります。
 一瞬の間を置いて、慌ててそれを伸ばしていましたが、時すでに遅し。
 
 確かに、レシートを受け取らない客も少なくないでしょう。何人もそういうのが続くと、またどうせ、という気持ちになることが、分からないわけではありません。
 けれども、レシートは、出すのが店の義務です。
 義務を忘れたやり方というのが、あちこちで見受けられるような気がしている私は、これもまたそんなものか、と思うことがありました。
 
 けれども、私はまた、こんなことにも気づきました。
 
 これは、一種のマニュアルに化している行動パターンではないか、と。
 確かに、レシートは渡すのが、当然のマニュアルです。これを表マニュアルとしましょう。
 しかし、度々レシートを受け取らない客がいたり、レシートをすぐに捨てたりする客が多かったりすると、もうレシートは渡さないほうが却ってよい、という行動パターンができてしまいます。恰も、40km/h制限の標識の道も、皆が50km/hで走っていればそれが当然のものとなっていくかのように。
 これを裏マニュアルとしましょう。この、裏マニュアルによる一連の流れが、「レシート、よかったですか?」が自然と口をついて出る原因となっているのではないでしょうか。
 
 そこには、一応、客への配慮らしい言葉遣いがあります。配慮すらなかったら、そもそもそんな質問を口にする必要もないわけです。黙ってレシートを握りつぶせばよいのですから。ただ、それではやはりあまりにも店員として失礼に過ぎるという認識はあるわけです。人に配慮はしているのだという部分が、ちゃんと現れているのは、間違いありません。
 
 お断りしておきますが、これは、コンビニの店員を糾弾しているのではありません。その店員をも含む、もっと大きな「時代の空気」とでも言えばいいのでしょうか、そのようなものを見つめようとしています。
 後でだったら、簡単に判断を下せます。公害が大問題だ、環境問題は大切だ、などと。しかし、数十年前には、そんなことを意識した人は少数でした。今でこそ歩行喫煙は悪であるとの認識がいくらか広まりましたが、私が苦情を訴えていた十年前には、私は変人でした。
 江戸時代はこういう時代だった、と述べることは受験生でもできますが、江戸時代に生きていた人は、そんなことは考えてもいませんでした。
 この現代は、どんな時代なのでしょう。考えてみたいのです。それは、私自身を含むゆえに、もしかすると的を射た言明はできないのかもしれません。自分が自分について言及すれば、必ず自己撞着に陥るからです。
 
 それにしても、このマニュアル化は強い力で突き進んでいるかのように見えます。最近とみに多くなってきた動きのように感じられるのです。
 何かほかにも、これと類似の現象が見られないでしょうか。
 
 何か人に配慮しているような言葉遣いをしつつも、実は、その人のことをまるで見ないで言っている――人への配慮を、若い人がよくするのは知っています。しかし、必ずしも相手のことをよく見て考えてやっているわけではない、と思われるのがこのケースです。
 
 ハンバーガー店では、以前よくあったことです。
「店内でお召し上がりですか。それともお持ち帰りですか」
 マニュアルにあるのであろうセリフが、決まり切って出てくるのですが、私はそのとき、明らかに一人で店に来ていることが、状況からして明らかでした。そのうえで、何人分かを頼まれて、ごっそりセットを注文した後だったのです。一人でそんなに食べるわけが、ないでしょう。
「お持ち帰り……ですね?」といった質問は、このチェーン店のマニュアルからすれば、許されなかったのでしょう。もしもそれで、後から仲間がぞろぞろと現れてきて、「店内で食べるんだよ」と文句を言われてはいけないからでしょう。
 でも、「お持ち帰りですね?」くらいの、相手を「見た」セリフがあったって、それはいいんじゃないか、と思いませんか。
 だから、「自動販売機の『ありがとうございました』の方がまだましだね、元々人間じゃないのだから、こちらも別に文句が出ることもないし」と笑った友人の言葉も、尤もなことだったわけです。
 
 喫茶店に入った2人連れが、互いに雑誌を読み耽っているというので、何のためにここへ来たのだろう、と訝しく思うことも、昔ありました。
 そのうち、ウォークマン(製品名)で街を歩く若者がいて、めちゃくちゃ危ないじゃないか、と思ったものでした。が、私もまた、その輩の一人となっていきました。
 
 今では、それらは可愛いものです。
 本や音楽で、心がよその世界に行ってしまっているから、危険である、というふうに過去では捉えられていましたが、必ずしも今ではそのように思われていません。
 電車の中で私も本を読んでいますが、周囲の人々にある程度気を遣い、「そこに人がいる」という意識を欠かしたことがありません。依然として音楽をイヤホンからシャカシャカ漏らしている時代遅れの人も偶にはいますが、概ね音漏れも減ってきて、音楽を聴いている人も、周囲に人がいるという気持ちで行動している人が、昔よりずいぶん多くなったような印象があります。
 
 今、「そこに人がいる」という意識がまるでないと思われるのは、ケータイに没頭する人々でしょう。
 東京などではマナーがよくなったと言われますが、福岡はダメです。ケータイは、優先座席であろうがどこであろうが構わず作動しています。もちろん通話も度々ありますが、通話でなければよい、という認識でメールに勤しむなど、使用者が皆群れとなって赤信号を渡っているような感じです。JRも、「通話はご遠慮下さい」としか放送しません(放送などうるさいのでないほうがいいというのが私の基本的考えであるにしても)。
 メールを送信するときに、電磁波が車内に相当飛び散らせているかということを考えないのも問題ですが、今はそれについては触れますまい。問題は、メールにしろゲームにしろ、ケータイに没頭している人々が、周囲に人がいるという気持ちをもっているかどうかです。
 もっていたら、どうして、座っている人の頭の横でパチパチできるのでしょう。立っている人の背中に押しつけるような形ででも。
 
 再びお断りしますが、ここでも、ケータイが悪である、などと言っているつもりはありません。ケータイという契機で露わになった、この時代の人々を支配する空気が、いったいどういうものであるのか、少しでも捉えたいと考えるから、このような言い方をするのにほかなりません。
 
 電車内で化粧が堂々とできるのはなぜか。そして、それをされるとどうして人は頭にくるのか。
 その一つの答えとして、まわりの人々を、人間だとは考えていないからだ、という説明がありました。人がいるのであれば、恥ずかしい気持ちや、相手に失礼だという気持ちが起こりますが、カボチャやナスであれば、遠慮することはありません。ネコの前では裸で踊っても恥ずかしくありません。
 人間扱いされない気持ちが、憤りとなっている、という説明は、分かりやすいと思いました。
 
 ウォークマンも、たぶん当初は、そのように、周囲の人が人間的な眼差しを送られていない、という気持ちがあったのではないでしょうか。
 しかし、そうした人数が今や減り、代わりにケータイ族がうようよしているから、彼らの人間無視的行動が、怒りを呼んでいるのかもしれません。
 尤も、このケータイ族があまりに多すぎるために、互いに人間に無関心になり、互いに誰に対しても腹を立てるようなこともない、という状況がすでに発生しているとすれば、それもまた怖いことかもしれません。
 
 なお、電車内で目の前にお年寄りがいるときになど、「寝たふり」をする人のことが想起されるかもしれません。あれも、人間を無視しているのではないか、と。
 それは違います。「寝たふり」をしている以上、そこに人がいることを意識しているのです。それが「ふり」であるならば、どこか良心の呵責を伴うような形で、寝ていれば理由になる、と演技するわけですから、そのときには、人を意識しています。
 事態はもっと深刻です。
 たとえば、私は服飾に興味がないので、「ブティックのある角を左折して……」などと言われても、全く思い出せません。たしかにいつもその角を曲がっているにせよ、ブティックなど意識していないわけです。
 これと、少し似ています。ここで問題としているのは、寝たふりすらする必要がないほど、周囲に人がいることなど、全く意に介していない状況なのです。
 愛の対極は、憎しみではなく、無関心である、という言葉があります。これと比較すべき構造です。
 
 ケータイにはまっている人は、実は心理的には「引きこもり」と同じだ、と指摘している人がいます(この「ひきこもり」という表現を悪意や病的に解釈する必要はありません。一つの現象として述べるわけですから、もちろん差別的に用いているわけでもありません)。私は、常々そのように考えていたので、これは大切な提言だと思いました。もっと、そういう意識が広まればいいと思いました。
 たとえ誰かとつながっている気がしているにしても、ただ仲間から外れたくないだけのための「今何してる?」式のメールに、すぐさま返すために時間を割かれ続けなければならない、一種のチェーンメール式の義理も、必要なことだとつきあい疲れているような人々。
 彼らは、今目の前に実際にいる人々のことは、まるで関心がありません。今いるその場所で、心を閉ざしていることは、悪い意味で、引きこもっていると言われて仕方がないことかもしれません。
 ですから『電車男』は、あれだけネットや趣味に浸りながらも、電車の中で人への関心を強く持ち続けたとなれば、引きこもりとは正反対の世界にいると考えることもできるでしょう。
 
 いやはや、家庭でパソコンのキーボードに向かっている私も、家族から見れば、そのような存在なのでしょう。
 それなりに、周りにいる人のことは見ているつもりでも、そういう印象を与えてしまうのは事実だと思います。気をつけようとは思っていますが、そうなのでしょう。
 
 ケータイメールで死亡事故を起こした運転手が起訴されていました。
 未必の故意としての重い罪は、与えられない雰囲気ですが、危険と分かっていながらそれをしたことの責任は、重大です。近年ようやく、悪質な運転には重罪が及ぶようになってきましたが、分かっていながらやっていることについては、重罪を適用しないと、今後ますます無駄な死に方をしなければならない被害者が増えていくでしょう。
 
 とりとめもなく考えを及ぼしてきました。
 人の痛みや悲しみに、無関心であるゆえのニュースが、世の中に溢れてきていると、お気づきになりませんか。いえ、ニュースにならないような事柄の中に、私たちの日常の風景の中に、それがなんと多いことか。私もまた、学校長とか教育長とかいう名前を光らせる教育界というところが如何に腐っているか、身にしみてよく分かる事態に巻き込まれました。
 あなたの「気づき」から、時代の空気をどこか浄化していくような一歩が、始められるかもしれません。


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