第二の拉致
2002年11月20日

 2002年秋、日本人のノーベル賞が同年に二人出たというのは快挙でした。そのうち、田中耕一さんは、いわゆる学者でないという意味で、大いにもてはやされることになりました。いわゆる、取材攻勢。なにもそんなことまで、と思われるような報道の過熱ぶりには、しだいに嫌気がさしてきました。田中さん本人が語ったように、この受賞は単独の功績であるわけではないとすれば、こうまで受賞者一人を、しかもそのかなりプライベートと思われるところにまで土足で踏み込んでいく取材は、まるで暴力のように思われたからです。そのためには、そういう取材番組を見ないことだ、と考え、関心を示さないようにしていこうと決めました。
「国民が知りたがっているから、取材するのだ」と、報道関係者はよく言い訳します。そうでしょうか。たとえば私が田中さんのことで知りたかったのは、その技術の原理と仕組み、応用性についての詳しい解説です。でも、それはほとんど何も報道されませんでした。ただ私生活を暴こうとして追い回すだけのマスコミの姿ばかりが目立ちました。
 もし、知りたいという人々の気持ちがあることが事実だとしても、私は、それは、つくられたもの、仕立てられたものだという可能性を強く主張したい。何も本来知りたくもないことなのに、次々と映像が流され、話題にされるから、知りたいような気になっていった――一種の流言に乗ったような状態ではないか、と考えるのです。
 
 まだ、おめでたい話題ならば許されるかもしれません。
 北朝鮮の拉致被害者の帰国を巡る報道の場合は、もっと深刻です。どうしてこんなに、私生活にずかずか踏み込むことが許されるのか。どうして毎日行くところ行くところを追い回さなければならないのか。私は、理解ができません。帰国者が今日は何をした、どこに行った――しかも、拉致問題とはとうてい関係ないような内容までが、しつこく報道されています。なぜ? なぜ?
 パンダでさえ、これほどまでにしつこく報道されたでしょうか。それとも、タマちゃんが最近現れなくなったことで、被害者たちをタマちゃんの代わりにしているのでしょうか?
 乱暴な表現で、関係者はお気を悪くなさるかもしれませんが、しばしお許しください。このような見せ物状態では、ご本人たちは、もしかすると、北朝鮮で暮らしていたときのほうが、穏やかで安心できたかもしれない、と想像してしまうではありませんか。
 
 ある人が言いました。
「これは、第二の拉致ではないか」
 いつも大勢の圧力的存在に監視され、自由ができない。まわりが期待すること以外は発言もできない。ギトギトした視線に押し潰されそうな毎日は、私だったら、たまらない。
 田中さんが言えばまだ冗談のように解釈したでしょうが、被害に遭った方々は、叫びたいのではないでしょうか。「ほうっておいてくれ!」と。
 もちろん、これは政治的問題でもあります。つまり政府は、国家的問題の中で被害者たちを監視しています。しかし、報道内容は、それとは別に、あまりにもお粗末です。しかも、「私たちは彼らのことを心配するから取材するのです」と、自らの善良性を自己弁護として持ち出そうとするでしょう。
 北朝鮮が、個人の自由を認めない息苦しい国家であると称する人がいますが、日本はもしかするとそれ以上に耐えられない苦しい国であるかもしれません。
「ばかな。北朝鮮に洗脳されている被害者を、健全に戻さなければならない!」
 そんな正義の声も聞こえてきます。でも私の目には、日本の世間のほうが、よほど洗脳的であるかのようにさえ見えます。
 
 誤解を招くといけませんから述べますが、私は何も、北朝鮮が正しいとか、被害者は北朝鮮に帰るべきだとか、主張するつもりはありません。今後どうするかは、ご本人たちが決定すればよいことであって、他人が「〜すべきだ」などと圧力を加えることではありません。拉致が犯罪行為であったとしても、その行為を裁き、その過去の行為について償いを求めればよいのであって、たとえばもしもせっかく今家族をもってささやかな幸福をやっとつくりだしたという方を、無理矢理日本に連れ戻して家族をばらばらにするのが正義であるとは、私には思えないのです。
 たいへん奇異な、苦しい立場におありなのは分かりますから、ご自身が決断なさればよいことだ、と考えています。
 厳しい非難を浴びている、ある週刊誌にしても、あそこまで行き過ぎず、上のような立場から、日本のマスコミの洗脳的圧力に反省を求める主張をしたのであれば、よかったのに、と思います。この行き過ぎによって、さらにまた、日本国民の大多数が、被害者は直ちに日本に戻って生活しろ、という号令をかけ続ける空気が強まったとするなら、残念なことです。
 
 統一協会から救出しようと努力している団体があります。キリスト教会の中にもあります。とくに教会では、キリストの名を騙って、本人は善と信じつつも騙されて主催者の金銭欲と名誉欲のためにすべてを犠牲にさせられている被害者――そしてこの場合、被害者が次々と加害者にまわっていくという悲劇がある――に対して、たまらない痛みを感じていますから、熱い心と才能のある方々が、統一協会被害者とその家族のために、命がけで(ご存じないかもしれませんが、ほんとうに命がけなのです!)、救出しようと努力している人々がいらっしゃいます。
 しかし、統一協会側は、こう反論するのです。
「キリスト教会は、私たちの仲間を、無理矢理拉致して、洗脳しようとしている」
 見方を変えれば、それもまた、故なきことではないかもしれません。正義というのは、それほどに難しいことだろうと感じます。
 拉致被害者の皆さんとその周囲の方々には、政治的にでなく、むしろ心理的に、厳しい問題が横たわっているのではないかと思います。キリスト教会が、カルトからの救出に携わって得たノウハウを、今回の場合も活かす可能性はあるのではないかと想像するのですが、そうなると、一宗教として出しゃばるようになるのでしょうか。
 祈るばかりです。


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