戦争と原則と原理
2003年4月7日

 教室で、戦争と平和について触れる機会が増えました。子どもたちの反応は、概して、平和第一ではありませんでした。
「だって、イラクが悪いっちゃろ?」
 私は、同じ教室で殴り合いのケンカをしている人がいるとして、どちらが悪いということをまず議論するかどうか、子どもたちに尋ねました。それよりまずケンカを止めようとするだろう、と子どもたちは理解してくれます。
 しかし、最初の第一声「イラクが悪いから仕方がない」という声は、やや意外な気がしました。まず平和を考える、というのではないか、と予想したからです。
 私なりに、理由を考えました。というより、その反応を聞いて、直感的に分かりました。子どもたちにとり、「イラクが悪い」というのは、たぶん当然の発想だということに。
 子どもたちがケンカしている姿を想像してください。どうしたのだと訊くと、必ずこう言います。
「だって、あっちが先にしたんだもん」
 先に悪いことをした方が絶対的に悪いのであって、それに対して、よし過剰な反撃を加えたとしても、そちらはケンカの原因を作ったわけではない、という意味で、責任を免れる――それが、子どもの理解なのです。

 子どもは、一つの原則に従って判断する性質があります。そのときの状況によって、灰色は白にも黒にもなる、というふうな芸当はできません。だから小学生は、低学年のときには算数が大好きです。答えが実にはっきりしているからです。高学年になると、論理的にのみならずかなりの想像力を有する問題が登場するためにしだいに算数を苦手としていきますが、低学年のときには、国語より算数のほうが概して人気があります。正誤の基準が明確だからです。
 だから、生活の中で出会う事柄も、善悪ははっきりしなければならないと考えています。しばしば屁理屈をこねて、妙なこだわりを示すのも、そうした傾向の現れにほかなりません。

 私も、かつてそうでした。世界が数学的に美しくある「べきだ」としか考えられず、それに当てはまらないもの、たとえば悪は、あってはならないもの、徹底的に糾弾しなければならないもの、という前提で捉えていました。
 そこから、そうではない、と気づかされて救われたのは、ずいぶん後になってからでした。
「イラクが悪いから仕方ない」と答えた子どもたちの気持ちに、私は昔の自分を思い出したような気にさえなりました。

 もしかすると、産経新聞や讀賣新聞は、そうした幼児的な思考のまま大人になった人たちが集まって仕事をしているのかもしれません。
 もう少しイラクの立場にも立って考えてみたらどうなのだろう、という気になるほど、それらの新聞は、ひたすら「イラクが悪い」「イラクを叩くのが当然だ」の論調のみをひたすら繰り返しています。

 善悪が実にはっきりしている。まるで時代劇あるいはちゃちなドラマのようなその感覚。昔のヒーローものもそうでした。今では、ウルトラマンや仮面ライダーも、何が善であり何が悪であるかに主人公が悩むという設定に変わってきています。それゆえに、小さな子には難解なものとなり、非常に大人向けなものに変わってきたといえます。主役のしょうゆ顔の若者に、ヤンママ(これって死語?)たちが黄色い声を挙げていることも、それと無関係ではないと思われます。

「相手が悪いから自分は相手を殺して(懲らしめて)よい」
 この原則には、一つの前提があります。それは、「自分は悪くない」ということです。自分にも悪いところが何かしらあると理解すれば、相手をそこまでしなくてよい、というブレーキがかかります。しかし、自分は清廉潔白であるとの信念があれば、悪である相手を徹底的に叩いてよい、と考えることになります。
 自分は決して悪の側にいない。そのことに気づけば、逆にそれを罪だと知り、救われるという例があります。私がそうです。しかし、気づかずそのままでいれば、ずっと救いとは対極に位置するままで終わってしまうでしょう。
 これは、その原則を支える背景であり、原則の根拠となっているものです。そのようなものを「原理」といいます。「原則」は、「原理」に基づいて形成された判断命題ということになります。(因みに日本語で「原則的には……」というのは、例外を持ち出すための言い方ですが、本来の「原則」という言葉には、一切例外が許されません。論理学を徹底させる考え方とは対極にある日本的な思考が、「原則的には……」の表現を玉虫色に操っています。私はそれが嫌いで、「原則的には」の代わりに「基本的には」を使います。)
 自分が何らかの「原則」を重んじていると認める人も、その原則が自分の中で別の「原理」に従って判断されているということには、気づかないことがしばしばです。時にそれを「深層心理」とか「潜在意識」とか呼ぶことはありますが、それがそのまま、自分では原理に気づいていない、という事実を示しています。

 だから、何か「原理」を他人から指摘されると、「ああ、そうだったのか」と驚かされることがあるわけですが、その性質を巧みに使う集団があります。『原理講論』というタイトルそのものが、原理を解き明かすという姿勢を、どこか神秘的に表しています。統一協会です。実に巧妙です。これが世界の原理だ、と突きつけるわけですから。慎重な性格と予備知識などのない人は、簡単に騙されます。
 統一協会(時に「統一教会」と記されますが、正式には「統一協会」です。キリスト教会のように聞こえる「教会」を用いるのは、おそらくどちらにとってもまずいことになるでしょう)は、どんな「原理」をもっているでしょうか。たぶん、それは「カネ」でしょう。カネという原理に従って、それを目的として、活動をしている。宗教を手段として。そのように見受けられます。
 その原理に気づかされずに、彼らが「原理」と言い渡した宗教的な理論に操られている兵隊たちは、今日も詐欺や犯罪を重ねながら、純粋に神のためと思いこんでいます。不幸なことです。

 アメリカの兵隊たちはどうでしょうか。やはり宗教的に、あるいは国歌への忠誠のために、命を懸けて戦っている人もいることでしょう。
 アメリカの「原理」は何なのでしょう。一つには、やはり「カネ」にあるように考えられます。国家的な権勢の示威もあるかもしれません。あるいは、大統領の、宗教的な思いこみも加担していると言えるかもしれません。
 いずれにしても、兵隊たちがそれとは関係なく、生死の境界を歩かされているという点には違いがありません。
 アメリカの原理が、カネや権力に重きをおくのに対して、イラクの原理は、それとは異なるような気がしてなりません。それが何であるのか、指摘するほどイスラムについて知ることのない私は、判断は控えさせてもらいますが、アメリカの原理とは別の次元にあるのではないか、という点は如何でしょうか。
 文化的にも全然違う判断基準をもっているから、イラクの人たちの語る言葉は、私たちには理解しにくいものとなっていますが、あちらの文化に属する人には、きわめて分かりやすい論理で、イラクの大統領や国民は、ものを語っているのではないかと思うのです。たまたま今の日本人が、アメリカの言葉を聞き慣れているために、そちらのほうが理解しやすいと考えていますが、イスラムにはイスラムの論理や思考回路というものがあって、それに慣れていないが故に、たまたま私たちには理解しにくいだけなのではないか、ということです。

 単純に、イラクが悪いとかアメリカが悪いとか裁く人よ。あなたは、「だって……」と、その際に何かの原則をとなえるかもしれませんが、その判断は、どんな原理に基づいているのでしょうか。

 さらに私には、胸を痛めることがあります。この、情報合戦ともなってくるアメリカ等とイラクの戦争ばかりが報道される毎日の中で、すっかり報道されなくなってしまった、他の紛争――戦争と呼んでよいのではないか?――のことを、忘れていないか、と。インドとパキスタンも、ティモールも、チェチェンも、コソボも、北アイルランドも、エチオピアも、スーダンもアンゴラも、ソマリアもコンゴも、エクアドルもコロンビアも、まだまた挙げられないほどの世界各地において、今もなお兵士が戦い、住民が殺され、飢餓に喘ぎ、子どもが親を亡くし、難民となってさまよっていることが、まるで知らされなくなり、イラクに落とされる爆弾の閃光の映像と音に、かき消されているような状況はないのか、と。
 それらに対して、ではおまえは何ができるのだ、と問われても、私は何もできないとしか言いようがありません。祈るだけだと答えても、それが何になるのだ、と言われるとおしまいです。
 そんな私を、私は正当化するつもりもありません。ただ、報道されなくなった世界各地の同胞――同じ時代を同じ地球で生きているというだけで、たまらない偶然を感じ、誰もを同胞と呼びたい気持ちが私にはあります――のことを、忘れないでいることが、私の、ささやかな原則となっているに過ぎません。
 そんな私の原理は、何なのでしょうね……。


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