長崎男児誘拐殺人事件
2003年7月10日

 今、長崎の幼児誘拐殺人事件について、ワイドショーがすべての時間を割いて議論しています。事件そのものとしての関心もさることながら、加害者が12歳であったというのが、衝撃だったのでしょう。
 
あるサイトでは、13歳以下の少年犯罪の記録が一覧できるようになっています。ここには36件挙げられています。うち20件以上が、殺人が絡んでいます。今回のように、いたずら(という言葉は使うのも嫌なものですがとりあえず情報を伝えるために敢えて使います)目的に関わるものもありますし、小学生が小さな子を殺してしまったケースが目立ちます。
 こうしてみると、14歳未満で人を殺してしまうという事件は、必ずしもありえない話ではないわけですが、たしかに最近は「殺人」に相当するものが減少していたのは事実のようです。今回と類似のケースは、昭和にまで遡らなければならないのですから。
 沖縄での中学生を含んだ暴行殺人事件によって、少年犯罪の恐ろしさの暗示を受けていたところへ、さらに低年齢の12歳という数字が、人々を叫喚させました。しかも、これは刑事事件ではない、という、引っかかりをもった説明によって、さらに衝撃は増し加わったようです。

 中学校の校長や教頭が、表に出てきて会見に挑むことは当然のことですが、おそらく二人は、少年のことをほとんど知らないでしょう。中学の担任も、少年の内面についてはあまり把握できていないと思われます。会見では、担任の印象が「精神的に幼稚なところがある」という言葉で紹介されていましたが、この言葉は如何様にもとれる表現で、受け止めた一般の人々は、それぞれ勝手な想像を巡らせたかもしれません。
 もし私が教師として生徒を「幼稚」という表現で説明するとすれば、多分こういうときに使います。その子が、自分が何をしているのか理解していないとき。自分を客観視する力が不足していると感じられたとき。その子が、自分が悪かったという自覚をどうしてももてないように見えたとき。
 また、「いたずらっぽい」との評もありました。自分が悪いことをしている、という自覚をもたずに何かをするとき、それを幾らか好意的に見る人は、いたずらっぽい、という言葉で説明します。自分ではよいことをしていると信じている「確信犯」的な面もあったのかもしれません。
 長崎の事件の少年(便宜上彼をA君と称することにします)についての取材の中で、その幼稚園時代に指導した先生が、「自分の非を認めない」ところがあったと答えたそうです。幼児にしてそれを要求するのも難しい面がありますが、7年前のことをそのように述懐できるということは、それほどに、何か目立ったことがあって記憶に残っているのではないかと思われます。その傾向は、小学校へも続いていった模様で、先生に注意されるとそれを認めず騒いだり外へ出て行ったりといった声も、聞かれました。「自分の思い通りにならない」場合に、そのようにするのだそうです。
 それをたんなる「わがまま」と片づけることもできるでしょう。その理解は間違っていないと思います。「わがまま」はすぐさま欠点ですが、十歳を超えてくると、「プライドの高さ」という考え方で、どこか尊重されてくることがあります。矯正されなければならない幼い時期を過ぎると、人間の欠点も、一つの人格として尊厳をもつことになります。中学生になったときには、そこに指導の難しさがあります。
 塾では、この小学生から中学生の流れを受け持っています。私はどちらかというと、小学生でもかなり尊重しつつ扱いますが、それでも、躾をするような役割を果たさなければならないときがあります。問答無用で、だめなものはだめ、と押さえつける必要がある場合にも出会います。危険なことをしているときには烈火の如く怒ります。でも、小学生たちもそれがなぜ叱られたのかは、分かっているので言うことをききます。理解できない子がいそうな場合には説明をしますが、説明してもなぜ悪いかまだ分からないような子がいた場合、私たちは「幼稚」なところがあるというふうに見なします。事の善悪の理解が足りていないからです。
 中学生になると、むやみやたらに注意はできません。中には、どうしようもくわがままなまま横柄な口をきく子もいますが、適度に注意するか、何かその子が心を開いているようなタイミングに出会ったときに初めて、しっとりと話して聞かせるか、という程度です。口やかましく押さえつけるように話しては逆効果です。

 A君の場合、どうだったのかは推測に過ぎません。おそらく、身体的には、中以上のものがあったのでしょう。見た目はそう子どもっぽくなかったのかもしれません。それで、むやみに叱りつけることもますますできなかったことでしょう。でもだからこそ、もう少し自分のことを客観視してほしい、という要求も起こったので、そのギャップが「幼稚」というふうにまとめられたのではないかと想像します。
 ふだんは(コンピュータ)ゲームをよくしていたといいます。だからゲームが悪い、と言いたい人も出てくるでしょうが、ゲームが原因ではありません。ゲームは、彼を取り巻く世界の中の重要な一アイテムではあることは間違いありませんが、それのせいで事を犯したのではないでしょう。それならこんな事件は何万と起こるはずです。彼の世界の中にゲームが位置していたという事実は考慮に値するにしても、それをただ悪者にすることは難しいものです。
 ふだんはおとなしかったといいます。よく分かります。ふだんから騒いで発散させられるような部分をもっているなら、こうした行為にこっそりと走りエスカレートするというふうにはなりにくいでしょう。
 友だちが少なかったといいます。友だちの中に自分の気持ちを投影させることにより、また自分を客観視することもできます。友だちがいなければ、自分を見つめる視点を得ることができません。多いか少ないかという人数の問題ではありませんが、彼の同級生が「友だちが少ない」と評していることは、人数の問題というよりも、友だちとの、「我と汝」の関係を学ぶ空気が彼にはなかった、ということを伝えているのではないかと推測するのです。

 私は12歳ということを聞き、A君についての証言めいたものをマスコミ取材から知り、ふと、A君のイメージが鮮やかに沸いてきました。それは、ある男の子との比較によるものですから、たんなる私の思いこみかもしれませんが、とにかく私の身近なところで、こんな男の子がいました。
 色白で、物腰は優しく、学科の理解度もかなりよいほうです。背も高く、顔立ちもよいほうですし、特別目立つようなところはありません。一言居士、というとまだよく聞こえますが、授業中、教師の説明に対して、必ず何か一言加えなければ気が済みません。それも、教師の一言に関連しつつ、授業の本筋とは別の事柄に触れるような、冗談めいた内容の言葉です。そうして大きな声で笑います。自分で思いついたアイディアを全部ぶつけ、自分の発想を喜んでいるみたいでした。こういうことができるためには、教師の話をよく聞き、またそこから連想を加える力や、ある種の機転が利かなければなりません。その意味で、頭脳は明晰であると言わざるをえません。
 しかし、一度や二度ならまだしも、毎時間一言一言にそのように自分の思いつきでかき乱す生徒に対して、教師はつきあってはいられなくなります。そのような発言はもうやめるよう注意します。それでも抵抗することがありますが、だんだん聞いてもらえなくなると、むっつりとふてくされるようになります。そして、自分の世界に閉じこもり、何か別のことを始めます。厭きてくると、また注目してもらいたくて、わざと鉛筆を落としたり、教師が注意したくなるようなことを始めたりします。はさみで人を突くような真似をするなど、危険なことも憚りません。ついに、そういうことはしてはいかんのだ、ときつく言うと、彼はけっして抵抗はしませんでした。ただ静かに、白い横目で睨むのです。冷たい、恐ろしい眼差しでした。騒ぐことがないので、よけいに不気味でした。
 やがて彼は、突然言います。「○○くんがぼくに○○してきます」
 実際大したことをしているわけではないのですが、たしかにしていないわけではありません。小さなことだからとあまりきつく叱らないでいると、彼は我慢できなくなります。なぜ○○くんのことは注意しないのか、と。自分は注意されたのに、○○くんは叱られないのか。何度もやかましく訴えます。
 ある実験をそのクラスでしたとき、こういうことは危険なので絶対にしてはいけない、と注意をしたことがありました。彼は、それをしてみます。注目されたいというのもあるのでしょうが、悪ふざけ、あるいは危険だからしてみたいという願望が強くそれを抑えられないといった感じでした。とうとう教師は叱ります。とにかくそれは危険だからしてはいけないのだ、と。
 すると彼は、直立の姿勢のままで、またあの白眼視的な目つきをして、「悪うございました」と言いました。もちろん自分が悪いという気持ちがそこにないことは、誰が見ても分かります。さらに何度も「悪うございました」「悪うございました」と大きな声で繰り返し言い続けました。ずっと目はすわっています。冷たい、恐ろしい空気がその場に漂っていました。

 A君が果たしてそういう子であるのかどうか、それは全く分かりません。でも、自分の冗談に自分で笑うときのほかは表情のない、日頃物静かな彼と、報道されるA君の性質とが、どこか重なって感じられて仕方がないのです。
 A君のことは、中学の先生では、十分お分かりではないでしょう。三ヶ月でそこまで理解するのは困難です。むしろ、今回は、小学校の先生がよくご存知であろうと予想されます。
 私立小学校から、低学年のときに公立の小学校に変わったといいます。給食のメニューが気に入らなくて、という声がテレビで紹介されていましたが、それは表向きの口実に過ぎない可能性があります。公立の、四年生ないし五年生くらいの担任の教師が発言してくると、かなり内実が判明すると思われます。中学年は、子どもの個性がよく現れ、自立心も起こるところから、かなり不安定な部分があります。逆に言えば、その子のよくないところが表に出てくることが多いということです。
 A君は、背が高いと報じられています。14歳未満がどうの、と一律に扱われなければ仕方がないのが法律というものでしょうが、実際何歳であろうと、170cmくらいの身長をもつ男の子が、精神的にも肉体的にも子どもであるはずだという前提だと、カバーしきれない部分が生まれても仕方がありません。少なくとも犯罪に関係する部分では、体と心とのバランスがとれていない状態であったのかもしれません。中国では、乗り物の料金が、年齢ではなく身長によって、大人料金から子ども料金かが分けられる、と聞いたことがあります。法律の基準が年齢だけでよいのか、についてもまだ考慮の余地はありそうです。

 言葉の響きが美しいせいか、「心の闇」という表現が盛んに使われています。これはやめていただきたい。「心の闇」がない人がいますか。A君だけが心をよってたかってあばかれて、それでよいのでしょうか。いえ、今私はそれをやってしまっていることになりますが、それでも、これは個人の問題とはしたくないという前提でやっています。私の中にもその「心の闇」はあるし、その「闇」の中に光が射しこんでくる経験ももっています。願わくば、彼の心の中にも、その光が来てそれを受け入れるようになってほしいし、被害者の関係の方々も、突然追い込まれてしまった「闇」の中で、時間が経つかもしれないけれども、必ずや光が射すときがあることを、願わざるをえません。

 親はどういう育て方をしたのか、という点にも、関心が注がれています。今回はそれは明らかにされにくいことでしょう。親は裕福であるような情報もあるようですが、たとえそうでなくても、一人っ子でたぶん何でも与えられ何不自由なく育ってきたであろうことは、容易に推測できます。甘やかされたのだ、という評価もありうるでしょう。だからわがままに、というふうに。それはそうかもしません。いえ、たぶんそうなのでしょう。
 それでいて、密かに関心をもった性的なことが、どんどんエスカレートしていったような状況も、想像に難くありません。こういうことは、最初は些細なことから始め、それがうまくいくと、次はもう少し刺激のあることへ、と踏み出していってしまうものです。
 しかし、子どもを育てるのは親だけではありません。かといって、地域とか、学校とか、そういったものに還元するつもりもありません。周りがその子を育てようとしても、また家に戻り、親が「いいよ、いいよ」で慰めてくれたなら、その色に染まり続けることでしょう。
 難しいものです。親に拒絶され、あるいは虐待される場合もあれば、親が溺愛する場合もある。どちらも、問題であるというのならば、どうしたらよいか分からないことがあるかもしれません。

「普通の子のようだった」「とりたてて予兆があったわけではない」そんな言葉が、事件後によく囁かれます。「まさか、あんな普通の子が……」などと。
 それは、周りの人が、つまり傍観者的な私たち一人一人が、自分には責任がない、と言って逃れたくて口にする言葉のように思えてならなくなりました。「やっぱりあの子が」と言えば、では知っていてなぜ、となりかねないからです。
 最近の子どもは、よく世間で言われているような欠点ばかりではありません。よいところがたくさんあることも知っています。それでいて、一つ気になるのは、自分の非を認めようとしなくなった点です。子どもは、聖書の時代もそうであったように、取るに足らないもの、あるいは社会的には身分の低い立場のものでした。だから自分が悪いのにそれを認めないで威張っているなどという状況は、かつてはあまりなかったものです。幼少にして身分が高い王族や貴族、武士などを除いて。そしてそうした身分の子どもは、それだけの責任を負った上での気位の高さをもっていたことでしょうから、ただわがままであったわけではありませんでした。それが、今ではその責任を負うという事実なくして、ただ子どもが威張っているような面が表に出てきたように感じるのです。
 中学生に、数学で割合の方程式を教えるとき、それが何の役に立つのかという質問を受けることがあります。将来家を買うときには、この利率ということを考えて……などと説明したところ、そのしっかりしたような男の子はこう言いました。「家は親に買ってもらうから、そんな計算必要ないよ」と。冗談で言っているのだろう、ともう一度突っこんでも、さらに親を頼るような答えしか返ってきませんでした。もっと精神的にも逞しい印象の子だったのですが、なんと子どもっぽい発想なのだろう、と思いました。
 もしも「普通の子」がしてしまったのなら、その「普通」を作ったのは、社会を形成する大人たちです。私であり、あなたです。
「すみません」の言葉が出ない大人たちが、生んでしまったのです。歩きタバコ、電車内のケータイ、路傍駐車やウィンカーなしの大人たちが。もしもそれらに対して文句でもつけようなら、「何が悪い?」と凄まれそうです。そして何か起こっても「私のせいじゃない」「そんなつもりじゃなかった」と責任逃ればかり考えます。責任をとるつもりはさらさらないのでしょう。自分の非を認めず、責任を負いたくないが自分のやりたいことは何としてもやりたい、こうした空気が、子どもの手本となってしまっています。

 ついでに言えば、「防犯カメラ」は「防犯」になっていない、と気づいた人もいたと思います。「監視カメラ」が正しい呼び名ではないか、と。産経新聞は例によって、朝日が「監視だ」と言えば、「監視」と呼ぶのはアカだ、と一蹴するような論調ですが、言葉の意味から考えれば、今回、「防犯」できなかったわけで、「監視」として役立ったに過ぎないでしょう。もちろん、こうした実例が挙げられれば、抑止力はあると思われますから、「防犯」と呼ぶのも間接的に間違ってはいないことになります。
 なんとか周りの大人たちの力で防ぐことはできなかったのか、と論評する傍観者もいます。たしかに、防ぐことはできませんでした。不審者情報についてもっと切迫感をもって接していれば、A君もここまでエスカレートしてしまわずに済んだかもしれません。ですが、これも想像に過ぎないのですが、十分防ぐことはできたという理解もあるのではないでしょうか。つまり、防犯の意識があったからこそ、ほかにももっと起きていたかもしれない事件が起きずに済んでいたかもしれない、と。あるいは、ちょっと触られて逃げてきた、で終わってケースもいくつかあった、などと。こう言うと、今回の被害者の関係者には悲しく聞こえてしまうことになりますが、いくつかの場合は防ぐことができて、今回は防げなかった一つの場合だ、とでも言わなければ、長崎の近辺の人を傷つけることにもなるわけです。
 むしろ、このような子どもとそのおとな社会を形成している私たちが皆、責任を負うべきだ、と考えていかなければ、また同様の哀しみが続くことになりかねません。ニュースを見て憤ったり悲しんだりした一人一人が、自分もまた、こうしたことが起こる風潮を助長している一人なのだという自覚を背負う必要があるのではないでしょうか。


追伸
『日本の論点2003,せとぎわの選択』(文藝春秋社)の編集は、必ずしも公平な声の集まりとはなっていないと思いますが、それでも、百ます計算で有名になった陰山英男氏の論説を載せているのはまだ良心的でした。
 私がこのコラムを一度仕上げた後に偶々読んだのですが、私と似通った観点がそこにあることを発見しました。
「(政治家が)心の教育の重要性を語るなら、国会から流れてくる金にまつわる汚いニュースを子どもたちがどう感じているか、それを感じるくらいの感性は失ってほしくないと思います。」(p603)
 全く、その通りです。続いて、その論説はこのようにして終わっていきます。
「社会の危機は、決して外的な複雑な要因が引き起こしているのではなく、この社会をどうしようかという私たち大人ひとりひとりの、その役割に応じた基本的使命の自覚欠如という単純にして深刻なところから起きているのではないでしょうか。」(p603)

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