見えないものを見るために
2003年11月26日

 中学入試問題を教えていると、入試云々というレベルの関心を超えて、ただ感動してしまうということがあります。
 弘学館中学の入試問題もそうでした。
 石ころの話という詩があって、小さな女の子が、石がお話をするのだということが記してあるというのです。そこに筆者は、「見えないものを見、聞こえないものを聞く」ことを知るのです。
 それは幼子だけの特権でしょうか。おとなもまた、それができることがあります。筆者は、続いて黒柳徹子さんの体験を紹介しています。
『繭子ひとり』というテレビドラマに出演したとき、「田口ケイ」という貧しいおかみさんの役を演じたといいます。貧しい人の役柄に徹し、メーキャップはもちろん、その雰囲気まで役に徹していたのだそうです。ところがその扮装でトイレに行くと、いつもなら親しげに話しかけるような人たちも、誰も気づかない。振り向きもせず、声をかけてくる人もありません。汚いおばさんだ、とにらむばかりだというのです。食堂で、小銭がなくて一万円札で支払ったら、うっとうしそうな目つきでにらまれ、誰からも嫌われていたのだという。
 黒柳さんは、考えました。自分は今まで、親切にされるのに馴れすぎていたのではないか、と。田口ケイという人物にしてみれば、こうした扱いが当たり前なのです。そして、黒柳徹子は女優であるから、もとの黒柳に戻れるけれども、ケイさんは元に戻れない、と思うと、たまらなく悲しくなったそうです。
 それまで見えなかった世界が、見えるようになりました。その意味で、石が話をするという少女と同じ経験をしていることになります。
 入試問題の文章は、最後に、フランスのジュールベールの言葉で結ばれていました。
「目を閉じよ。そしたらお前は見えるだろう」
 
 水戸黄門や遠山の金さん、暴れん坊将軍というように、身分を隠して庶民の中に潜み、いざというときに身分を明かして悪を斬るという時代劇は、依然として人気があります。爽快さを覚えるのでしょう。
 あんなに一方的に断罪してよいのだろうかと思うこともありますが、ともかく、そうしたストーリーを愛するわりには、実際に目の前にみすぼらしい人がいるときに、軽蔑の眼差ししか送らないという現実。黒柳さんは、そこに気づかされました。自分がその立場になって初めて、見えるようになりました。それでも、自分は元の立場に戻れるから、本当に辛い経験をすることはありません。どうやってもその境遇から抜け出すことのできない人は、どんなに辛いことでしょう。
 そういう経験を、少し以前には「気づき」と称して考える人たちがいました。気づかないゆえに、野放図に悪を為しているということがあります。
 歩きタバコも、自分で悪いと思ってやっていないのでしょう。電車の中での携帯・メールも、まさか自分が悪いことをしているなどとは思っていないのでしょう。車を運転中の携帯やメールも、同様ですし、だからこそ、新幹線の運転中にもそれができたのでしょう。人間、悪いことと知りつつやりたくなる心理はありますが、悪いことを軽く見過ぎているとなると、気づいていないと言って差し支えないと思います。
 泥酔して車を運転しても、悪いとは思わない。パトカーに止まれと言われても逃走することで、まるでカーチェイス映画のヒーローにでもなったかのように勘違いしている。報道の仕方にもよるのでしょうが、この数日、そういう事件がどんどん報じられています。何の関係もない子どもの命を、いとも簡単に奪ってしまっても、酒のせいだと言い逃れができるように考えているとすれば、他人の私にさえ、たまらない怒りが湧き起こってきます。その遺族のお一人がマイクの向こうで嘆いていました。「していけないことは、子どもでも守るのに、大人だから守らない」と……(でも、テレビ局の取材も残酷すぎて、やめてくれと言いたいのが私の本音です)。
 見えないものを見るどころではありません。見なきゃいけないものも見ていないし、そこにあるものも見えていない、いえ、見ようとさえしていないのです。
 
 見ていなかった。知らなかった。その言い訳が、罪を軽くできるということが、広く信じられているようです。
 じゃあ知らないとは言わせないようにしよう、ということかどうか知りませんが、街はつまらない騒音と醜い看板とで溢れています。私が乗り換えするJRの駅では、エスカレーターが動いている間中、放送が途切れなく流れます。――お子様の手を……雨の日は滑りやすいので……ベビーカーはたたんで……と、たまりません。私が帰宅する夜には、お子様もベビーカーも見当たりませんし、多くの日は雨も降っていません。だのに、延々と放送がうるさく流れます。たぶん、これを放送しておかないと、事故があったときに、JRが注意しなかったのだという管理責任が問われるからでしょう。
 頭にもきていますが、それよりもむしろ情けない。企業も、客も、ばかです。
 
 されたほうの気持ちを考えること。されるほうの立場になってみること。私が子どもの頃から、いろいろ教えられてきたことです。私にそれができたかどうかは疑問ですが、そうしなきゃいけないという意識をもつことはできました。
 今、家庭や学校で、こうした教育はなされているのでしょうか。もしかすると、教える側の親や教師自身が、そうしたことをしていないがゆえに、子どもにも教えていない、いや、教えることができないのではないでしょうか。
 ほんのわずかな想像力ですら、すっぽりと欠落しているために。
 
 聖書の世界に出会い、私は、見えないものを見ることの大切さを、改めて教えられました。見えないものを見ていくことに、信じる力、信仰というものの基本があることを知りました。
 こうすればこうなる、という簡単な推理さえ、絶滅しようとしている世の中にあって、信じるがゆえに新しく創り出していく役割を担っているのだと感じます。そしてそれは、クリスチャンだけの特権ではなくて、私は、子どもたちの中に、たしかに認めるのです。
 小学生や中学生の多くの眼差しの中には、たしかに、輝くものがある、と。
 もしも、おとなに絶望したとしても、私は、子どもたちに信頼をおきたい。その生きる力は、おとなが世話してなどやらなくとも、それどころか、世話などしないほうが、よほどまっすぐに成長していくのではないか、とさえ思うのです。
 夢のある話をしてあげたい。信じる力を育てたい。世の中はこんなもんさなどとうそぶくのはやめて、神さまはこんなにも正しいのだという希望を握ることができるようにさせてあげたい。
 自分の子にはもちろん、出会う子どもたちに、そんな気持ちで接したいと思うばかりです。

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パンダ          


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