心をおしはかること
2004年5月13日

 1983年、WimmerとPernerという発達心理学者が明らかにした実験があります。
 それはたとえばこういう内容です。Aちゃんが人形で遊んだあと、人形をカゴの中に入れて、部屋の外へ出ました。Aちゃんがいない間にBちゃんが部屋へ入ってきました。Bちゃんはカゴから人形を出して遊んだあと、人形を箱に入れて出て行きました。もう一度Aちゃんがやってきて、お人形で遊ぼうと思いました。
 さて、質問です。Aちゃんは、人形がどこにあると思っていますか?
 この質問に正解を出すためには、自分の心とAちゃんの心とを区別して、Aちゃんの心を推測しなければなりません。これができるようになるには、4歳くらいの年齢が必要なのだそうです。

 この実験のことを改めて本で目にして、つくづく思いました。大人の世界の言い争いや対立の背景には、このAちゃんの心を読めるかどうかに等しいことがあるのではないか、と。
 人がどういう視座のもとにそういう発言をしたのか、そういう考えに囚われているか、という考慮なしに、つねに自分の見えているものだけが正しくて相手はとにかくすべて間違っている、と断罪することを、大人はよくやっています。とくに、自らが何らかの権威や権力をもっている立場の人間は、よくそれをやります。自分のしていることを顧みて人々の思想の自由を寛容の思いで包容していくことが求められているにも拘わらず、権威や権力をもつ側の人間が、当然正しいのは自分だけではないか、と吠えて論敵を徹底的に嘲笑し、葬り去ろうとしている風景が、実に多く見られるというふうに私は見ているわけです。

<君が代>東京都教委の処分で緊急アピール 法律学者ら

 卒業式の「君が代」斉唱時に起立しなかったなどとして、東京都教委が公立学校の教職員196人を処分した問題で、全国の法律学者や教育学者ら247人が28日、「都教委のやり方は『現代版・踏み絵』だ」と抗議する緊急アピールを出した。研究者らは都教委に「子どもたちの自律的な人格形成を妨げる」と申し入れた。(毎日新聞)
[4月29日1時12分更新]

 このようなことは、例のイラク人質事件でも起こり、これは全世界――とくに自由主義諸国――で驚きをもって報道されました。
 
 邦人人質は「のけ者」扱い=被害者への非難噴出で英紙

 【ロンドン28日時事】28日付の英紙タイムズは、イラクでの邦人人質事件をめぐり、日本で「自己責任」を理由に被害者や家族を批判する論調が高まっていることについて、「日本人人質は母国で『のけ者』のように扱われている」と報じた。
 同紙は最初に人質となった高遠菜穂子さんら3人について、「解放され、帰国してから本当の苦しみが始まった」「3人は英雄として戻るどころか、空港では送還された犯罪者のようにふさぎ込んでいた」などと指摘した。 (時事通信)
[4月28日23時1分更新]

 これらは、偶々起こった一つ二つの例であるようには、思えません。こういう空気が段々濃くなっていることに、少数の人は気がついています。なにかおかしい、という感覚は、訴えてもなかなか多くの人の賛同を得られるものではないだけに、動きが始まらないのですが。
 一方、自ら考えようとしない人々の中には、扇動的で情緒的な一部マスコミの声に易々と賛同する雰囲気が作られているようです。どうしてもう少しだけでも、自分の頭で考えようとしないのだろう。どうして、そうするとこの先どうなるかというわずかな想像力をなげうってしまうのだろう。そんなふうに、悲しい気持ちがします。
 想像力と思考力の欠落。それがもたらしています。お人形がカゴか箱かどちらに入っているのかを、相手の気持ちに立って考えられるのか、それとも傍観している自分の立場からしか考えられないのか、その違いが、歴史の流れを変えていきます。
 どうしてこんなことに……。

 産経新聞は独自の主張をもって強い意見新聞として成り立っています。もちろんそれはどこの新聞社にもあることでしょうし、朝日新聞はしばしばその産経新聞の反対側にあるとされています。
 その通りでしょうが、それでも私が見るかぎり、朝日の論調は、カゴか箱かどちら側に人形があるかを相手がどう認識しているか、は踏まえているように読めます。それが、産経新聞になると違うのです。相手の考えは問答無用というのが通常です。とくに自由な随筆的批評として書かれる産経抄というコラムはそれが顕著です。
 思うに、産経抄の筆者は、自分の書いた文章によって、どんな影響が出るかということに、関心がない人だと思います。もしかすると、すべて計算ずくで、影響を出そうとしているのかもしれません。
 5月13日の、痴漢冤罪の話も、一見、男性が無罪とされてよかったという筋のようです。しかし、たたみかけて見せる例話が与える印象は、まるで「痴漢」と訴える女性はでっち上げばかりだ、と読者に植え付けるようなものです。今度は、というか以前からそうなのですが、痴漢に遭っても女性のほうが訴えにくくなります。ただでさえそれは言いにくいのに。もちろん、それがために誤認逮捕される男性もたまったものではありません。でも、誤認逮捕が何例か起こったがゆえに、専ら被害者である女性を貶めるような表現に終始してよいものでしょうか。
 そのような空気をつくり出していることに、筆者は全く気づいていないのでしょうか。それとも、意図的にその方向へもっていこうとしているのでしょうか。
 これが他の新聞記者なら、そのような弱い被害者女性の立場の考えやそこへの配慮を、必ず挟むものです。しかし、産経新聞のコラムは、そのようなことをしません。私はやはり意図的だと思います。政治的意見にしても、男尊女卑と見られても仕方のないような言葉遣いにしても、わざと一方的にまくしたてていると推測します。そうした他に配慮せぬ意見の言い方が一見「スカッとする」「切れ味がよい」などというふうな効果をもたらすことを計算して、読者をその方向に引っ張っていこうとしているのだと思うのです。だから私は、これを言論操作と呼ぶのです。でなければ、数々私が指摘しているように、論理的とは言えないコメントを書き続けていけるはずがありませんから。

 心をおしはかることが、できない幼さには、罪がありません。しかし、おしはかることを意図的にしないで人々をある方向へ煽ることには、罪なしとは言えないと私は考えるのです。

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