キーボードと言葉の問題
2006年3月27日

 Ctrl+C とか、Ctrl+V とかいうのは、パソコンをお使いの方には自然なキーボード操作であるだろうと思っていました。もちろん、手に不自由を覚える方などは、マウス一本で、ということもあるでしょうが、つねにコマンドから引き出してコピーをクリック、などという面倒なことを、一般にやっていくのがよいようには思えません。
 ただ、中学校では、期末試験に、エクセルの操作などとでてきて、このいちいち大変なコマンドの流れを説明させるものがあって、何が楽しいんだろうと唖然としたことがあります。
 それはそうと、職場で文書を作成していた若い女性。タイピングはかなり速いのですが、どうにももたもたしている。コピーを、上記のやり方でやっていなかったのです。
 Ctrl+Vで、パッと文字列が現れたときには、「きゃっ」。私がそれを教えただけで、えらく感動されてしまいました。
 気に入ったなら、これで楽をしましょう。私はそう提案しました。
 
 かといって私は、マウス操作はいけません、Ctrlキーを使わなければなりません、と断じているのではありません。マウスしか扱えない人や、マウスのほうがやりやすい人がいるからです。これは、正邪の問題ではなくて、好みの問題でもあるのです。
 その人なりの、慣れや楽しみを無視して、キーボード操作にこそ価値があり、マウスはよくない、と決めつけてしまうことには、無理がありましょう。
 ケータイの親指ピッチが楽しい、と考えている人がいれば、それでいいでしょう。これで小説を書いてしまう人も現れたのです。
 しかし逆に、だからといって、ケータイの親指で打つことこそベストであり、キーボードはだめだ、と広め始める人がいたとしたら、どうかと思います。初心者に、文字はキーボードではだめなのでケータイでこそ打つべきです、と教えるのではなく、それぞれの打ち方を示して、あとは本人に選んでもらえばよいわけです。
 
 だのに、依然として、キーボードの日本語入力の標準はローマ字入力である、という路線で指導されているとしたら、どうでしょう。
 たしかに、元来タイピングといえば英文タイプを習得している人がごろごろいて、その人たちがいざ日本語キーを覚えよう、とする時代がありました。このときには、ローマ字入力がやりやすかったのは当然です。
 何を隠そう、私がそうでした。私の場合は、ドイツ語でした。ブラザー社の、電動タイプライターを購入し、ちゃんとドイツ語キーもあるやつで、ぼかすか打っていました。手動だと、タイピングの速さにアームが絡まってしまうので、電動のスピードが必要だったのです。
 しかし、その私も、パソコンあるいはワープロを使い始めたときには、日本語入力に徹しました。まず、親指シフトという富士通でした。あれは速かった。後にシャープのものに換えたときには、改めてJIS配列で覚えました。
 とにかく、日本語で頭に浮かんだことを文字にしていくのですから、その文字をそのまま打っていく感覚がないと、流れていかないのです。頭の中で一度母音と子音とに置き換えて、というクッションが、時間的に許せなかったのです。頭の中に生まれた言葉を、そのまま打ちこんでいくという感覚のためには、私にとっては、ローマ字入力など、考えられませんでした。
 日本語の発想をそのままどんどん打ちこんでいくためには、ローマ字入力では無理がある、という事実もあるのではないかと思います。
 
 なぜローマ字入力を初心者に推奨するのか。
 それはひとえに、覚えるキーの数が少ないから、ではないでしょうか。しかしそのために、改めてローマ字表を睨み覚えさせる必要があるとすれば、最初から五十音でやったところで、覚える事柄がさして増えるわけではありません。
 事実、キーに関して言えば、26覚えられる人は、50覚えることが特別に困難なわけではないケースが殆どでしょう。25メートル泳げた人が、50メートル泳ぐことはさして難しくないように。
 朝三暮四じゃあるまいし、見た目の数で損得を勘定してばかりいるのではないでしょうか。
 と言いつつ、私も、ひらがな入力だけがよい、と宣伝しているかのようですが、そうではありません。ローマ字で入力する人も、しだいにローマ字という感覚がなくなっていくそうで、頭の中で「自然に」ローマ字の指の動きを呼んでいるらしいのです。それはそれで特技と言えますし、否定する理由は何もありません。
 私がしつこく食らいついているのは、「ローマ字入力のほうがいいぞ」とパソコン教室で初心者に価値観を教え込んでいることです。あるいはそれは単に、教える教室の側の都合であるかもしれません。統一されたほうが、教える側はやりやすいのですから。
 
 もしローマ字入力のほうが本当によいのであれば、いっそのこと日本語そのものも、漢字も廃してひらがなだけにするとか、ローマ字だけにすればいい。そんなところにまで議論をもっていく必要はないかもしれませんが、ローマ字で考えるというふうな仕組みは、従来の思考とは大きく変わってしまう契機を含むと考えてもよいのではないでしょうか。
 ケータイのほうでは、ローマ字入力がないので、これはある意味で健全なのかもしれませんが、これは、タイピングで問題になった腱鞘炎どころの騒ぎではない、きつい症状を呼ぶのではないか、という懸念もしています。
 
 元々、キーボードと聞けば、鍵盤楽器を思い出していた世代が、懐かしくさえ思います。
 漢字の書き取り能力云々ということも深刻であり、今流行りの「脳年齢」どころの話でもなくなりそうです。
 日本語入力ということで、私たちが言葉をどのように考えているのか、そのために私たちがまた言葉によってどのよう引きずられようとしているか、考慮する必要がありそうです。
 言葉はまた、人の考えることそのものであり、人の心や魂にまで影響を与えます。聖書に、はじめに言葉があった、とするのは、神学的な意味もさることながら、それが命であるという指摘にもつながっています。
 私たちは、言葉を軽んじてはなりません。嘘は、すべてが嘘でなく、ほんの少しの真実を交えることによって、より頑強な嘘として広まっていく、という指摘が、ナルニア国ものがたりの最終巻に記されていました。いかにも本当のように聞こえることの中に、後々大変なことになる要素が隠れていないとも限りません。
 言葉への関心は、忘れたくないものです。


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