自由の国? アメリカ
2001年11月5日


 米軍のアフガニスタン攻撃に心を痛めた米国の高校2年の少女が、校内で反戦クラブを組織しようとして、停学処分を受けた。処分を取り消すよう求めて提訴したが、「この時期の反政府活動は教育現場を混乱させる」と裁判官も停学を支持した。(朝日新聞社/CLUBA&A newsサマリー 2001.11.3)


 悲しいニュースでした。細かい事情は分かりません。一概に、この女子高生を黙らせた処分が間違っていたのかどうか、それも分かりません。
 ただ、アメリカは、自由の国をうたっていたことは知っています。多民族国家として、新興国として、そしてフロンティア精神の国として、自由を主軸に貫いて歩んできた、一つのモデル国であったし、これからもあり続けようとしている……そのように、たかぱんは思っていました。
 繰り返しますが、この高校の事件そのものがどうか、ということを問題にしているのではありません。一端を伝聞しただけです。しかし、「この時期の」と限定することで、裁判官は、「通常なら」反政府活動も自由に一環であると考えていることが読みとれるとするなら、やはりアメリカは自由の国であったに違いないと捉えられます。
 それだから、また悲しいのです。
 国が、特定の敵に向かって、一つとならなければならない……それが戦時下というものでしょう。敵と戦うときに、国内で、戦争はいけない、という声が拡大していくことは、よいことではありません。だから、言論が統制されていく。口にしてはいけないこと、とってはいけない行動というものがはっきりしてくる。アメリカでさえ、その、ありきたりの道筋を通ろうとしているのだとすれば、自由とは何なのだろうか、と考えてしまいます。つまり、まだ人類は、自由という理念を実現することは、いまだできていない、というのがさしあたりの結論なのでしょう。
 かつて、日本にも、そういう時代がありました。

 日本への空しゅうの危険が高まると、夜は、てき飛行機ひこうきにみつかりにくくするために、電気を消して過ごし、昼は、防空ごうをつくったり、防空訓練ぼうくうくんれんなどをしたり、空しゅうに備えての準備が本格化していったんだ。毎日の生活は戦争一色になっていったんだよ。(首相官邸キッズ・戦中戦後の暮らし)


 戦争一色になっていく……それは、生活だけでしょうか。環境が、状況が、戦争中心となっていくことを指摘すれば、それでよいのでしょうか。
 つまり、戦争一色になるとは、戦争という「空気」をつくることではないか。そんなふうに、たかぱんは思います。もう、どんな思想も意見も、述べることが許されなくなるような、重い「空気」になっていくこと。反論することを制するような「空気」がその場に漂い、言わなければならないことが言えなくなっていくこと。
 そんな経験、ありませんか?
 どうせ言っても無駄だ。もしそんなことを言ったら、あとでどんなことになるか分からない。言わぬが花。出る杭は打たれる。寄らば大樹の陰。長いものに巻かれろ。……日本語には、大勢に従うことが生きる知恵だと言わんばかりの言葉が、なんとたくさんあることでしょう。それに対して、周りに合わせることなく自分の信念を貫く人に対しては、杓子定規だとか、融通が利かないだとか、協調性がないとか、変わり者だとか、いくらでも非難する言葉が転がっています。
 一色に染め上げられていく「空気」。後でいかに後悔しようと、あのときほんとうは戦争はいけないと考えていたなどと言ってみようと、その当時その空気に染まっていたとすれば、ある意味で自分もまた加害者の一人となっていくと考えられます。
 その加害者の一人を、非難するつもりはありません。そうせざるをえなかったという声も、たぶんまったくその通りだろうと思います。でもまた、被害者でしかないのだ、と大きな声で主張しないでいただきたいと願います。戦争責任を感じる心のある人と、ない人との差は、その辺りにあるのかもしれません。
 普通に考えれば禁煙すべき場所で、ふとタバコを吸い始めた人がいると、しばしばそれを見て別の人がまたタバコを吸い始めます。その人もまた、別の人に、タバコを吸ってよいのだという「空気」を作り出したことになりませんか。ある場所に空き缶を捨てた人がいた場合、そこに追加して捨てた人も、そこに捨ててよいのだという「空気」を作っていませんか。だのに、自分より先に吸った人がいたから、自分より先に捨てた人がいたから、と言って、自分の責任を回避しようとするのが、日常ではないでしょうか。駐車違反を指摘されると、ほかにも留めている人がいるじゃないか、なぜ自分だけが、と逃れようとするのではないでしょうか。

 自由とは、自分で責任をとるということです。
 もしもアメリカが、この戦争のゆえに難民となったアフガニスタンの人々のことを、それはタリバンの責任だ、と逃れようとするなら、アメリカの目指した自由は、アメリカから離れていくことになるかもしれません。
 それは、日本も、そしてあなたも、たかぱんも、同じです。
 最後に、再び朝日newsサマリー(2001.11.5)から記事を引用します。
米に50億円、アフガンには数億円 被災者義援金に格差
 米国同時多発テロ発生から50日余り。その間、世界中から被災者への義援金が寄せられている。だが、日本で集められている募金はほとんどが米国被災者向けだ。アフガニスタン難民や飢餓が心配される国内被災民を救援する国連機関や非政府組織(NGO)には、必要な資金の半分も集まっていない。


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