いたむ
2006年7月7日


 牧師より、読むようにと言われた文章がありました。『福音と世界』という雑誌の中にあった、奥田知志牧師の「罪を引き受ける生」というタイトルのものでした。

 奥田牧師は、以前私たちの教会にゲストとして来てくださったこともあり、直接お会いしたことがあります。北九州で、いわゆるホームレスの人々のために、尽力しています。

 

 この雑誌は、ボンヘッファー生誕100年という特集号でした。奥田牧師の文章も、ボンヘッファーの生き方につないでいくものでしたが、それに先立ち、ホームレス支援の話からまず始まりました。

 ホームレスのための自立支援をするのが目的で、住まいを提供しようとして、ついに施設をオープンさせます。しかし、300名を超えるホームレスの方々に比べて、用意できた住まいはたったの5室。申し込みがたくさんあった中から、条件に従って選抜するのですが、ここで、選抜から落ちた人がたくさん現れます。また、困っている人々を選抜するという行為の中に、奥田牧師は、矛盾を感じます。

 自分たちは、カッコイイ支援をしているようなふうであったかもしれないが、それは逆に、困っている人々を差別するだけのことになりはしないか、と。

 

 ここから筆者は、ボンヘッファーが、非暴力主義を口にしながらも、最後にはヒトラー暗殺計画へと走っていくことを、詳しく論じます。

 それが、タイトルの「罪を引き受ける生」であるというのです。

 二つの間の選択は、善と悪のどちらにするか、というのが基本であるでしょう。しかしこの方法は、つねに自分を善の側に置くことになります。こうして、戦争や争いのすべては、これは善と悪との戦いであり、我が軍こそが善の側である、と宣言することになるのです。

 多分に、どちらの国でも。

 そこでボンヘッファーが言うには、善と悪という対立の中で生きるのではなくて、どちらにしても悪が残る選択肢しか人間には用意されていないのです。ホームレスの人々のために「よかれ」と思ってやったことでも、他に辛い人々を生み出したり、いつの間にか自己満足を生むような、「悪」であるというのです。

 つまり、善と悪との戦いではなく、悪と悪との戦いだ、というのです。尤も、現実には戦争は決まって、彼らは互いに、善と善との戦いだ、と言いたいでしょうが……。

 

 当教会の牧師は、こういう考えを基にして、罪人と自覚する、しかも心の中に弱さを覚えるような人々を集めた、一種の共同体を目指しています。それが、与えられた幻だというのです。

 そこで、奥田牧師の文章に、大きな援軍を得たような思いで、私にも知らせてくれたと思うのです。さらに、そこに大きな意味を見出しているからこそ、でもあるでしょう。

 

 口に「平和」と唱えることは、難しくありません。しかし、そんなお利口な返事をして、それですべてが終わった、と思うのも、なんだか聞いていて辛いものがあります。

 そこで、奥田牧師は、そこに「罪」を覚え、自分の責任の内にその悪ないし罪を背負うことができるという事柄について、まとめていくのでした。つまり、罪の責任を負うという問題でした。

 

 

 近年益々、この「罪」が自覚されなくなってきています。いえ、近年だけではないかと思うのですが、やはり「益々」と言いたいように感じます。

 平然と嘘をつく。その場限りの論理で、とにかく自分の欲求を満たそうとだけ狙う。そんな子どもや若者が増殖しています。いえ、大人たちの事件性を垣間見るだけで、そうした概念に括られるニュースが、限りなく転がっているではありません。子どもは、大人のあり方を知らず識らずのうちに、取り入れている、と考えたほうがよいかと考えます。

 そんな――自分自身を含めての――姿に辟易している私としては、奥田牧師の文章は、なんだ自分が書いているのではないか、と思うくらい、よく重なって響く言葉と感じられました。

 いえ、それは僭越に過ぎ、傲慢とも言えましょう。なんといっても一番大きな違いは、私が奥田牧師ほど、現実にリアルにそうした活動を体験していない、ということです。私は自分に何ら苦労を背負うことなく、いわば端からものを見ているだけで、口先ばかりです。奥田牧師は、汗水垂らしてホームレスの方々のところを周り、ふれあい、共に涙を流し、共に笑い、共に生きている活動を長年続けておられます。ですから、本来、私のような者がとやかく口を挟める次元のことではないわけです。

 

 それでも、考えることはやめたくないので、続けます。

 

 

 たまたま、『平和は退屈ですか』(元ひめゆり学徒と若者たちの五〇〇日/下嶋哲朗/岩波書店/2006.6)という本を借りてちょうど読んでいたのですが、こちらがまた力がありました。

 ひめゆり平和祈念資料館の語り部たちに対して、高校生たちが、どうやって戦争体験を受け継いでいくのかについて取り組んでいく課程についての、ルポでもあり、問いかけでもあります。

 そこには、平和に対する本質的な問題がちりばめられていました。

 

 だから平和を守りましょう、戦争はいけません、いのちは大切です、という言葉を並べるとき、それはむしろ心に響かない言葉として流れていく――そういうところから、この本は始まっていました。お決まりの言葉が、若い人々に響かない。そこから、すべてが始まりました。

 この問いかけは、実に本質的だと思いました。戦争を肯定する向きは、こうした言葉に対する反論をもっています。平和を現実に乱す敵が襲ってきた場合、家族や自分に刃を向けられていても、それを守ることはないのか、その敵を殺すときにも、命は大切だから殺せません、などと呟くのか、というわけです。

 

 この本には、靖国神社に参拝せざるをえない心の理由まで、明確にしてありました。ただ、何らかの欺瞞を胸に参拝を一つの安心とする大人たちと違い、その姿を見た若い人々は、いわば真に受けて、心底従っていってしまう危険性があるといいます。

 まさに、それは先の大戦のときの精神状態でありました。『少年H』のような優れた記録的な小説を読むと、大人たちは、戦争に負けると感じていながらただそれを口に出せないでいるという状況であったこと、他方子どもたちは、純粋にそれを信じていた者が少なくなかったこと、そんな対比がよく分かります。

 

 また、涙さえ、カタルシス作用に過ぎないことを、この本は見抜いています。

 ひめゆりの塔の映画を、当のひめゆりの方々は見ない、と言います。あまりにも現実とは違い、映画としての成功をおさめるために、感動と涙を呼ぶように作られていること、そして見た人が、映画館で多いに泣いて、さっぱりした顔で、感動しました、と笑顔で映画館を出て行く姿に耐えられない、というのです。

 いわゆる、お涙頂戴の商業映画に過ぎないので、やりきれない、という以上に、この映画に私は泣いたんだ、と自分の良心を証明するために泣いてさっぱりして帰る人々のことが、嫌なのです。それでは、目の前で残酷な死に方をしていった学友たちに、顔向けができない、という気持ちです。

 私の貧しい想像力でも、それは十分理解できます。

 

 学友たちを悼む、この人々は、たまらない気持ちでいるのです。戦争を体験していない若い人々も、この悼む気持ちが通じたときに、何かを受け継ぐことができるのではないか。それこそが、正当に戦争や平和を伝えるということになるのではないか。

 この本は、そんなふうに、次の世代に希望を見出していました。

 

 

 死者を悼む、と私たちは言います。しかし、靖国神社に参拝する「しかない」と強く主張する面々が「悼む」ためであると主張しているのが適当なのかどうか、釈然としない思いがしています。

 日本語は、漢字の輸入により、元来同じ範疇の言葉を、別々の漢字に振り分けたと言われます。語源的にそれがこの場合当てはまるのかどうか分かりませんが、「悼む」は「いたむ」と読み、同訓異字には「傷む」と「痛む」とがあります。

 傷ついている「傷む」は、この場合、心でしょう。もちろん、「痛む」のも心です。私たちは、「いたむ」思いを、死者に向けるときに、初めて「悼む」のだと言えるのでしょう。

 

 何が痛いのでしょうか。それは、自分の心でなければならないはずです。分かりやすく言えば、良心の痛みです。

 自分が悪かった――この感覚が「痛む」の中になければ、嘘でしょう。

 

 靖国に限らず、えてして近隣アジア諸国に強気である論者たちは、「〜しかない」「〜は当然」という論評の仕方をします。どうぞこれから社説などをお読みのときには、このフレーズに注目してみてください。「〜しかない」「〜するのが当然」「〜以外はありえない」などのフレーズが、どの新聞に、あるいはどういう論者において現れるか、です。

 それは、煽る姿です。人間の、そして自身のその判断が、唯一のものであるということを宣言しているのです。しかも、それを他人に押しつけて他人に同調させようという腹です。

 この論調に、「この人はいたんでいる」というものを、私は感じることができません。

 

 奥田牧師は、「罪」という言葉で説明していました。

 私はそれを幾分具体的に、「いたむ」あるいは「いたみ」という言葉で、捉えてみようと思いました。痛み・傷み・悼みという響きが重なるような、「いたみ」です。

 

 神は、ひとり子を十字架につけるとき、どんなにかいたみを覚えたことでしょう。

 なによりまた、イエス自身、いたみは計り知れぬものだったことでしょう。

 こうして、「いたみ」の究極を、私は神のもとにみていることになります。



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