二人の遺志を受け継いで
2003年12月3日

 二人の日本人がイラクで銃撃に倒れてしまいました。なんとも言葉がありません。遺族の方々や、同様の任務に遣わされる方々の苦しみや心労に対して、何も申し上げることはありません。
 イラクが如何に危険な状態であるかということは、日本にも十分伝わってきました。
 今回の問題は、ここからです。この事件が起こったことを、どう次の一手にかえていくか、ということです。
 ある人は、「だから」自衛隊の派遣や戦争協力はもう止めようと言います。またある人は、「だから」報復すべきだ、もっと強力しよう、と言います。不思議なことに、同じ事件から、二つの正反対の結論が導かれてくるのです。

 ありがちなのは、亡くなった二人の心を持ち出すことです。「二人もきっと、それを望んでいるに違いない」という言葉です。
 どこかで聞いたことがありませんか。靖国神社の論理です。あの戦争で亡くなった人々はきっと今○○と思っていることでしょう……。
 実は、亡くなった人は、何も考えていません。考えているのは、遺された人です。遺された私です。まさに「私」が望んでいることを、述べているに過ぎないのです。しかもどうもそこに気づいていないような論評が渦巻くのが問題だというのです。いえ、気づいてもなお亡くなった人の心を利用して主張していると思われる面々も。
 石原東京都知事は、ついに、刺激的な言葉で扇動〔本人に言わせれば先導?〕し始めました。「軍隊」「殲滅」などという言葉をわざと並べて、この事態に自分の主張をどんどん述べ始めたのです。識者がそれを見て評するように、一個人が私見を述べるならば許される自由も、都知事という立場から憲法を踏み越えることを主張して止まないというのは、やってはいけないことでしょう。もっとも、この人の場合は、最初からそう主張してやまないのですから、今さら驚くことはないのですが。

 事件が起こった翌日、新聞社の社説も当然、二人の犠牲のことを論じました。社説とは紛れもなく新聞社の意見のことなのですが、結論が全く違う方向にたどり着いていることが、歴然としていたので、一部を並べてみます。
 まず、讀賣新聞と産経新聞。

◆イラク中部のティクリートで、日本人外交官二人が襲撃され、殺害された。同地で開かれる復興支援会議に出席するところを狙われたという◆在英大使館の奥克彦参事官。在イラク大使館の井ノ上正盛三等書記官。平和の美味をイラク人の、そして日本人の口へ運ぶために尊い命を落とした両氏の名を、胸に刻みたい◆危険な場所の復興支援だから、相応の装備を整えて自衛隊が手伝うのである。そら見たことか、危ないイラクからは距離を置くがいいと「賞味するだけの人」は言うだろう。眠れる二人には手向けたくない言葉である。 (読売新聞・社説)


 川口順子外相は三十日朝の記者会見で、「亡くなった二人の遺志を受け継いで、テロに屈することなく、イラクの復興支援に積極的に取り組む−というわが国の基本方針が揺らぐことはない」と述べた。政府のこの姿勢を支持したい。同時に、二人の外交官の尊い犠牲を無にしないためにも、あらゆるテロを許さず、屈しないという決意を一段と堅固なものにしたい。(産経新聞・主張)

 ここだけでは明確ではありませんが、後者の産経新聞では、当然、自衛隊を派遣せよ、軍隊行為をよしとせよ、という主張にもっていくことになります。いや、外相の言葉がそのように利用される響きをもっていることが、その主張が顔を大きくする理由の一つになっていると言えるかもしれません。
 しかし一方、これを逆に導く論調もあります。毎日新聞の社説では、はっきりと二人の遺志をどうするという書き方がしてなかったので、別のコラムから採りました。

 当面は米軍が治安維持を担うにせよ、いま進めるべきは一日も早いイラク側への主権の移譲と、国連を中心にした国造りへの協力だ。武装勢力の大義名分を失わせ、復興や民主化に対するイラク民衆の意欲をもり立てなければならない。
 首相は日米同盟とともに国際協調も大事だと言う。日本には独自に築いた中東外交の実績もある。ならば、米国にものを言いつつ、イラク復興と反テロ協調の旗を振ることはできるはずだ。
 ブッシュ政権の要請に基づく自衛隊派遣だけにとらわれた狭い視野から抜け出さなければならない。それが本当の意味でテロに対抗し、イラクの復興に資することになるのではないか。
 復興支援が進むような確かな土台を国際社会とともにつくる。それが、亡くなった二人の遺志を生かすことに通じる。 (朝日新聞・社説)


 涙がこみ上げてきた。
 だが一方で、「ためらうな」の言葉が、「彼の遺志だ」という形で、自衛隊早期派遣の理由づけに体よく利用されないか、とも私は危惧(きぐ)する。(毎日新聞・発信箱)

 繰り返しますが、利用しようと思えば何でも利用できるのです。死者を鞭打つなという意味の言葉はありますが、逆に死者を神にするな、とも言えることを知らなければなりません。もし、宗教の一部が、神や祟りを利用して金品を巻き上げるようなことをしでかしているとするなら、政治もまた、死者を神に祀って人々を思うように動かそうと意図していることを、私たちは警戒しなければならないのです。

 なんとも空しい気持ちで聞くニュースがもう一つ。海くん一家が殺された事件が、全面的に明らかになってきたというものです。福岡の一家四人殺害事件の犯人たちも逮捕され、黒幕がないという結論が下されました。これもまた、言葉がありません。
 もちろんまだすっきりこないのですが、解決そのものは、多くの人の労苦があってなされたものであり、感謝しなければならないことです。でも、それにしても、海くんが帰ってくるわけではないのですから、空しいと口にしても、関係者に失礼にはあたらないと思いたいのが正直な気持ちです。
 このことで、中国人をどうのこうのという悪口も一部ではあるようです。ただ、これは政治的に利用できる代物ではないものなので、大きな話題には発展しにくいと思われます。
 報道によると、事件は金目当てのものであり、ベンツがあったから金があるだろうと目をつけられたふうなことが供述されていました。だとすれば、要するにあの家の車がベンツでなければ、殺されることはなかった、ということなのでしょうか。金をもっていると人々に示すことは、必要なこともあるでしょうが、まさにそれが命取りになったというのが、今回の事件だったということなのでしょうか。
 犯人逮捕、事件解決の言葉は、しばしばこのようにため息に変わるものです。

 でも、イラクや戦争との関わりにおいては、ため息だけで終わらせてはなりません。次はこの国がどうなるか、どういう方向へ進むのか、という動きを決めるものとなるからです。
 やるせない気持ち、空しさが胸にぽっかりと浮かぶこのときに、巧みな者が心に割り込み、ある方向へ導こうとしています。心の空き〔隙〕を狙って人をだますということがあるが、まさにそれのことでしょう。私たちは、「自分で考える」という、当然のことをあまりにもやっていません。自分で考えた人も一人として数えられ、自分では考えもせず誰かの声に乗っかる人も一人として数えられた上での、多数決。それで重大なことが決定づけられていくわけですから、そこに怖さを感じない人は、健全ではありません。利用してやろうと牙を剥いている人か、利用されて自分も利用する側に加担している人か、のどちらかです。例は悪いかもしれませんが、霊感商法や悪徳商法を勧める人々は、たいていその後者のようになって、いつの間にか悪に加担してしまっているのです。しかも自分では善いことをしているつもりで。

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