飲酒運転撲滅の火が、福岡から広がったこの夏。
秋には、やはり福岡から、いじめの撲滅が始まろうとしている。
だが、飲酒運転が、報道されることで減少していく方向に進むのに対して、
いじめは、報道されることで、逆に
「自殺すれば問題視してもらえるかも」という悲しい考え方をもたらすこともある。
そうではないのだ。
自殺しても、実のところ感じない者は何も感じないのだ、という現実がある。
だから、死ぬな。
たしかに、苦しいし、切羽詰まっているだろう。
逃れたほうか楽だと思う気持ちを、否定するつもりはない。
でも……。
「いじめ」は、そう簡単にはなくならない。
それは、飲酒運転が、酒を飲むか飲まないか、という境目がはっきりしているのに対して、
(飲酒運転すらなくならないのだが、)
いじめは、どこからがいじめで、どこからがいじめでないのか、
境界線が誰にも分からないからだ。
学校は、「いじめ」の境界線を、かぎりなく、ゼロに近い目盛りに置いている。
校長や教頭が「いじめ」を認めることは、まず期待しないほうがいい。
そういう生き物なのだ。
君の親は、「いじめ」の境界線を、それとは反対の側に置くことが多い。
少なくとも、ぐっと反対側の位置から、グレイゾーンを設けている。
いじめか、いじめでないか、怪しい、と思う範囲を。
しかし、学校の「偉い」人たちにとっては、そのグレイゾーンは、真っ白で潔白なのだ。
生徒にアンケートをとって、特にいじめの指摘はなかった、などとニコニコしている。
誰が、そんなアンケートなんかに、いじめの事実を告白するだろうか。
チクったら自分がどうされるか、先生には分からないのか。
しかも、それをばらす先生が現にいるではないか。
それでも、胸を痛めた生徒は、そのアンケートに、それとなくほのめかすように、
いじめがあることを伝えようと、工夫した表現をとって書いてくれる。
しかし、グレイを真っ白にしかコピーできない白黒頭脳の「偉い」人たちは、
その背後にあるものを感じる心など、持ち合わせていないのだよ。
理解してくれる大人は、きっと、いる。
もし、それが分からなかったら、
なるべく近くのキリスト教会に問い合わせてみるといい。
その道に詳しい人とすぐに出会えるかどうか分からないけれど、
牧師に電話してみたら、何人目かで、話は聞いてくれる人がいると思う。
逃れられない道はない、と、教会は信じているところなのだ。
教会に通う、ある人が言っていた。
その人は、いじめられる辛さを、よく知っている人だ。
「いじめなんかに、負けるな」
キリストは、この世で最高に、いじめられた人だ。
でも、世に勝った方でもあるのだ。
た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド