原監督の辞任に拍手
2003年9月28日

 讀賣ジャイアンツの原辰徳監督が辞表を出しました。シーズン途中であること以上に、たった2年でという思いがファンの間に生まれ、昨年の圧倒的な強さを顧みない経営陣との確執などが噂されています。
 会見も直接知りませんし、さしてこのチームに興味があるわけでもないので、ネット報道による言葉をそのまま信じつつ、このことから考え始めていこうと思います。

 夕刊フジは、原さんをかなり批判的に報道していました。監督の能力にはかねてから疑問があった、というふうに。この新聞、昨年の勝利が続く中でも同じ報道をしていたのでしょうか。
 しかし、多くの新聞やメディアは、原さんに好意的に記事を書いていました。そして市井でも、原さんの印象は悪いものではないように感じます。たんに若いというだけでなく、爽やかさなども。
 たしかに、若いゆえに、リップサービスは上手くありません。気の利いたことを言って取材陣を喜ばせることがないので、取材記事も面白いものにはなりませんでした。でもそれは、長嶋前監督と比較するからそうなのであって、もっと慣れていけば今後どうなったか分からないでしょう。
 原さんは福岡県出身だという資料があります。他の資料では神奈川県出身だと記されていますが、どちらが正しいのでしょう。ご存知の方は教えてください。福岡県大牟田市で少年期を過ごしたのは間違いありません。それで贔屓するわけではないのですが、私もまた、原さんに特に悪い印象をもったことはありません。
 そして今度のことで、個人的に原さんに急に親近感を覚えました。次の記事からです。


【激震!巨人】「原辰徳」をつかみきれなかった読売幹部

 「あの人ほど見た目と内面が180度違う人はいない」。原監督を慕う者は、こう口を揃える。『若大将』というあだ名がついたように、見た目は天真爛漫のお坊ちゃまだが、実際は頑固で、曲がったことが大嫌い。幼年時代を過ごした九州男児の血が流れている。このギャップにまったく気付かなかったのが、渡辺オーナー、そして懐刀として送り込まれた三山新代表など読売幹部だった。
 実は9年の長期政権となった長嶋監督も平成10年のオフに、解任を前提に新監督の調査を開始していた読売サイドの動きを察知し、辞任を示唆している。だが、この時は「辞めさせるな」という世論に反応した読売が一転して慰留。長嶋監督も続投を了承した。

 今回は5年前のケースと類似している。解任をチラつかせ、監督から人事権を奪い、かつ平行して世論の反応も見極める。だが、読売幹部は、原監督が、第2期、第3期の可能性が残されている長い未来の投げ捨ててまで、自ら進退を断つとは予想していなかった。

 コーチの多くが現役時代から自分を慕い、胸を張って「同士」といえる仲間だった。就任後には鹿取、篠塚といった年上のコーチにも「監督なんか長くできても3年。だから辞めるときは一緒に辞めましょう」と声をかけている。トップダウン式で次々と新人事が決まり、若いコーチ陣が不安の色をみせる。加えて「阪神戦3連敗したら(続投は)分からんよ」をはじめとするオーナー、新代表の屈辱的な発言の数々。腹を決めた。

 超人気球団であるがゆえに巨人の選手は後援者、マスコミから食事に誘われる。“ごっつあん体質”になってしまいがちだが、原辰徳はチーム内では珍しくは現役時代から相手が年配者でも“自腹”を貫こうとした。

 「同じ食事なら(食べさせてもらうより)自分で出した方がうまいに決まってるだろ」と当たり前のように言う。

 「監督というのはやらせてください」といってまでやるものではない−。ここに「巨人の監督をやらせてやる」と見下してきた読売の誤算があった。

(巨人取材班)――SANSPO.COM 2003.9.27.



 原さんの辞任のきっかけは、たしかに連敗というのはあったものの、その連敗に対して例のオーナーがこう言ったことでした。「次の阪神との3連戦で全部負けたら、クビだ」というふうな内容の言葉。
 私はこの言葉を知ったとき、原さん、もう辞めてしまえ、と心の中で思いました。私だったらその場で辞める、と。
 説明をするつもりはありません。こんなバカにされたようなことを言われたら、私は頭に来ます。そして阪神にきちんと勝ってから、自分から辞表を提出するでしょう。
 原さんは、いわばその私の計画どおりのことを実施したことになります。阪神相手に勝ち越して、それから「辞表」を出しました。あのオーナーにだいぶ慰留されたようですが、聞く耳をもちませんでした。そうです。そんなチームに残る必要はないのです。上の記事にあるように、九州の血が流れるならば、傀儡に踊らされるような苦しい現場とはおさらばしたいに違いありません。
 以前にも触れましたが、球場の応援が、金やたんなる勝利だけでなく、とにかく同じ仲間なんだという心意気で選手と一体化している福岡ドームの試合を見て、あの和田投手は、なんとしてもこの球場で投げたい、と惚れて、何の縁もない福岡のチームを逆指名しました。銭勘定からすればよそのチームに行ったほうが儲かるであろうような有名選手が、経営が苦しくFA宣言もさせてもらえないかもしれないようなチームで満足してプレーしているというのは、やはりこの和田クンと同じような心意気でいるからでしょう。いわば、金には換えられないものがあるという点です。金で選手を集めることはできないけれども、ハートで選手が集まってくるのです。
 京都から福岡へ引っ越してきて、今の塾で働き始めたものの、人を人とも思わないこきつかい方に辟易して、間もなく辞表を出した私のことです。原さんの気持ちが幾らか通じてくるような気がしてなりません。私の場合は、生活の心配がありました。慰留された結果、私の提案を全面的に受け入れるという会社に対して、互いにリーズナブルな契約を結ぶことでこの仕事を続けることになりました。日曜日はこうして全面的に休めるようになりました。

 讀賣ジャイアンツのオーナーは、かねてから私も話題に上らせているあの人であり、今回も辞任劇の発端を作った人でした。自分がどんなに原さんの心を傷つけているかは分からないで、明るいジョークでも言ったつもりだったのでしょう。3連敗すればクビだよ、と。しかし今となっては、その言葉が決定的な役割を果たしたことが明らかです。こうなると、会見の場で、自分の言葉が報道されるからこんなことになった、と取材陣のせいにするような言い方もした様子。もう、どこまでわがままなのか、私も悪口を言うのに疲れてしまいました。さすがに今回は、このオーナーの態度にはっきりと不快感を覚えた人が、少なくないのではないでしょうか。
 とにかく私は、権力をバックに、人を言葉で追いつめて楽しむようなことが嫌いです。原さんが気の毒でなりません。その口出しに、よくぞこれまで耐えていたものと思います。きっと、今回の辞表で、どこかすっきりしたものを感じたことでしょう。今はたぶんに切なく悔しいであろうけれども。
 どんな慰留に対しても、何を今さら、というような思いで見返します。原さんは、自分の正直な生き方に従おうとしているように見えます。人の顔色を見ながら調子を合わせていくようなことでなく、誰が何と言おうと自分の信念に従って進もう、というふうに。それは私が経験したことから、そう推測するに過ぎませんけれども。
 いくら解任と世間が騒ぎ、オーナーが監督交代と言ってごたごたを隠そうとするにしても、原さんは自身「辞任」という形にこだわるような発言もされました。大樹に頼るのではなく、自分の立場から、自分の言葉で、自分の信じることを発言したという点では、見事な意思表示だろうと思います。

 権力をバックに、人を言葉で追いつめる。この権力という表現の中には、広くいろいろなものが入ります。メディアそのものもまた、権力なのです。
 ですが、メディアや団体がつねに悪いというわけでもありません。また、個人が語る言葉の中にも、ずいぶんと威張った、なくなったほうがよいような言葉が連発されていくということもあります。私たちは、どうしたら、そうした毒を吐くようなことから解放されるのでしょうか。舌は制御しにくい、と聖書にも記してありますが、どうした言葉を発すれば、そうした加害者とならずに済むのでしょうか。

 よい本がありました。言葉による生き方について、実によい示唆に富んだ一冊の本を見つけました。
『言葉に思いを込める技術』(稲垣吉彦・自由国民社)は、この夏出たばかり。サブタイトルに「先達たちはどんな言葉で人の心をつかんだか」とあります。NHKの元アナウンサーが、言葉に関するこれまでのメモを集め直し、よい言葉を集めてまとめている本です。著者なりの解説も随所にあり、たんに寄せ集めに終わっているのではありません。
 私の心に強く残った箇所を少し紹介します。
 渡部昇一さんの文からの引用で、古のローマ帝国の『論理学』の本の表紙には「げんこつ」が描いてあり、『修辞学』の本には「手のひら」が描いてあったという話がありました。論理は鋭くげんこつのように力強く展開すべきであるのに対し、修辞つまりレトリックは、手のひらで相手をさするように優しく対しながら、説得していくというわけです。
 また、「テレケンソン」についての説明にも、思わずうなずいてしまいました。懸賞論文の審査で、この論文は締切間際に思い出して徹夜して書き、読み返す暇もなく……などと感想を述べる者が必ずと言ってよいほどいるそうです。だがこれは「テレケンソンの傲慢」なのだといいます。この感想は、逆にこう聞こえないでしょうか。「手間をかけて準備して推敲を重ねて仕上げた者たちよ。おまえたちは落選し、推敲もせず慌てて書いたおれが入選した。これは才能の差だねぇ――へっへっへっ。」
 本の著者は、この本で言いたかったことは「やさしさ」であると明言しています。「人は言葉によって傷つきやすいものだということを知っておいたほうがよい」と書いているのです。人を生かす言葉、人を安心させる言葉、孤独な人へ共感を示す言葉など、言葉はそのかけ方一つ、選び方一つで、大きな影響を与えることができます。言葉は人を殺すことも、生かすこともできるのです。
 この本は、消えつつある古き良き言葉が集められている面もあります。読むだけで癒されるし、自分自身こうした言葉を子どもたちに向けて語りたいと願わざるをえません。


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