犯人捜し
2004年6月13日

 気持ちはわからないわけではないのですが、違和感を覚えるアンケートが届きました。ある教育関係のメールマガジンです。
 佐世保の六年生の殺害事件に関してでした。
 そこには「一体どうしてこのような事件が起こったのか、大きな責任を思うと共に、私達は何ができるのかということを考えたいと思います。」と紹介して、自由に意見を書いてよいコーナーと、選択式のアンケートとが記されていました。
 選択式は、はい・いいえ・どちらでもない、の三択から答えることになっています。
 
 1)学校や教師に何らかの責任があるのではないか
 2)子どもが自由にネット見ることを規制すべきだ
 3)「やっぱり起こってしまった」と思う
 4)家庭や親に問題があるように思う
 5)マスコミは騒ぎすぎだと思う
 
 その他、再発防止のために有効だと思うことを3つに丸をつけよというものもありました。選択肢は、次のようなものでした。
 
 1)教師の指導力の増強
 2)道徳教育の増強
 3)事前の予防指導
 4)家庭での幼少時のしつけ、や生活指導
 5)子どもの共同学習体験等
 その他 
 
 今後同じような悲劇を繰り返さないために、対策を考えることは、もちろん必要です。教育情報を伝えているメルマガが、慌てたのも無理はありません。しかし、私は、さあどれを選ぼうかな、という気にはまったくなることができませんでした。それより、この問いはどこか間違っていないか、という感じが胸に湧き起こりました。このように、私が何かもやもやとしたものを感じたのは、何故だったのでしょう。
 どうやら、このアンケートが、「犯人捜し」の方向を見ているように感じたからのようです。いえ、そうはっきりこのアンケートが犯人を捜そうと提案しているわけではないので、そこに責任を被せているわけではありません。私が漠然と、「空気」のようなものを感じた、という、専ら私の側の問題なのです。
 
 教室でも、この「犯人捜し」という言葉が話題に上ることがあるでしょう。誰かの筆箱が隠されていた。誰だ。全員目をつぶりなさい。自分がした、という人は、怒らないから手を挙げてごらんなさい……。下手なテレビドラマの台本みたいですが、ちょっと連想しました。これなんか、まだ「犯人」というものが存在するであろうから、まだ意味をなすかもしれません。Sさんが学校に来なくなった。誰かがSさんをいじめたのではないか。心当たりのある者は……。はたして、このケースで「犯人」がはっきりするのでしょうか。少し疑問です。
 
 犯人を捜すのは、警察は逮捕するためでしょうが、私たちの日常で「犯人捜し」をするというのは、「責任者は誰だ」を明確にしたいという場合がほとんどです。何か問題が起こった。誰かその問題を起こした責任のある者がいる。今はそれが分からない。しかし見つけて、あるいは見つかって、責任をとってもらいたい。誰かがこの問題について責任を負う形ではっきり示されなければならない。そうでないと、示しがつかないし、人々も納得できません。
 誰がこの問題の責任を負うのか。私がそう呟きました。このとき、その「誰」の中に、私は入っていないはずです。もしも私がいわゆるその「犯人」であるとしたら、犯人は誰だという提案をしないでしょう。
 皮肉なことに、誰だ、と捜していたら、自分がそれだったという実例が、最近ありました。年金問題で、対立する党の誰それが年金未納だった、と厳しく追及した当の本人が、未納であったというのです。それも、一人や二人でなく……。挙げ句には、こんな分かりにくい年金制度のほうが悪い、と制度のせいにしたりするのですが、その制度を制定した責任者が自分(か、自分の与する政党)であったとなると、もう救いようがない事態に陥ります。これは、漫才ではなく、実話でした。
 年金に関して言うと、与党政治家は自分たちの考えた法案を遠そうと躍起になりますが、相手は、年金を食いつぶしてきたのは誰だと追及します。私ではない、俺じゃない、と口々に皆が言い、巨額の無駄を平然と放置しておいたことが現にはっきりしているのに、誰も責任を取ろうとする者はありません。私ではない、と逃れて……。
 
 ひどい場合には、「私ではない」と逃れるばかりではありません。「私だけじゃない」などと言う心理が人間にはあります。それは、とりもなおさず、自分がそれだと告白していることになることは明白ですが、言った本人もそう意識しないほどに、日本語として無責任極まりない言葉の一つとして誰もが口にする言葉となっています。
 駐車違反だよ。――私だけじゃないですぜ。
 だがあなたは違反した。――じゃあ、あの車はどうです。あちらは? なんで私だけがこんなふうに捕まるんですか。あの車はお咎めなしなんて、不公平です。納得できません。
 私は、注意を受けるなら世界中で最後の人間であるべきだ。この心理を実に巧く表したのが、英語の語句。他でも触れましたが、He is the last man that 〜. つまり〜をする最後の人間が彼だというわけです。これは、決して〜しない、というふうに訳すべきだとされています。責任を取ろうとしない人間は、決して何事をも為さないことが、これで分かります。
 すべからくこうです。ばかばかしすぎて、一々挙げる気力も起こりません。責任は自分がとる、という潔い態度に接することが、いかに少ないか……。
 
 責任があることに気づかない場合、気づこうともしない場合もあります。
 駅の喫煙場所が、ホームのまん中付近のベンチのところだという、訳の分からない設定をするJRの駅もありますが、それでも指定の場所に従う人がいるとすればまだいいほうです。
 指定されて場所であるかどうかしか関心がないと、こういうことが起こります。風で煙がどんどん一定方向へ流れていく。風下の人は不幸で、煙が容赦なく顔目がけて吹きつけてきます。気管支に弱さを抱えている人はてきめんで、咳き込んでしまいます。
 ゴホ、コボ、コボ……。自分が吸ったタバコの煙のために咳き込んでいる人がいる。はたして、この喫煙者は、それに気づくでしょうか。いいえ。自分のせいだとは、気づきません。私の考えでは、これで気づくような心の持ち主なら、恐らく最初からタバコなど吸わないだろうと思います。
 また、すれ違う歩行者が自分を遠く避けて歩くのを見て、自分がタバコを片手に歩いているせいだ、と気づくスモーカーが、果たしているのでしょうか。気づくくらいなら、最初から吸いながら歩くという危険行為などしないと思われます。
 自分がやっているということに、全く気づかない事例が、実際に沢山あるわけです。
 
 犯人捜しについても、まず、こう問うことから始めてみては如何でしょう。
「この事件について、《私は》どんな責任を負っているだろうか」と。
 
 これが、「社会」の原則となりえます
 この問いかけ、この思いがないところは、「世間」ではあっても、「社会」ではありません。「世間」だったら、個人とか主体的人間といったものはないそうなので、いわば無責任が当然背景を支配していることになります。
 個人として自由と責任が伴う場所が「社会」となります。
 犯人捜しをすることは、しばしば興味本位からです。ハイデガー的には"Das Mann"として、頽落している存在者が暮らす「世間」の中での一場面となるでしょう。
 犯人捜しをする心理として、確かなことが一つあります。それは、「自分は犯人ではない」という前提です。自分が犯人であるならば、犯人を捜そうという提案は起こりません。そして、犯人を捜そうと動いている人は、まず自分自身を除外してから、動いています。
 まとまった結論は、当然、自分自身を除いたところに、犯人を想定することになります。
 これは、フェアではないと思うのです。
 
 もう一度、あのアンケートの選択肢を見てみましょう。
 1)学校や教師に何らかの責任があるのではないか――「何らかの」が責任をぼかしています。メルマガ発行者が、学校関係者であり教師であるという背景があるゆえに違いありません。というのは、
 4)家庭や親に問題があるように思う――においては、「何らかの」が見られないからです。このアンケート作成者は、教師サイドに立って、犯人捜しをしています。
 2)子どもが自由にネット見ることを規制すべきだ――というとき、自らが教育サイトを展開し、メルマガで情報発信している点を捉える眼差しが抜け落ちています。このメルマガ自体、読者から年齢のデータは取っているのでしょうか。また、年齢詐称すると引っかかるような方法を考えていたでしょうか。子どもが、自由にこの大人向けのメルマガを受け取るように申し込むことができたとすれば、この「規制すべきだ」は、自分たちの活動を除外して発言していることになります。
 3)「やっぱり起こってしまった」と思う――これは果たして、他の選択肢と別の意味なのでしょうか。どれともつながらないでしょうか。殆ど意味のない選択肢です。
 5)マスコミは騒ぎすぎだと思う――この「マスコミ」という言葉が、新聞社やテレビ局などを指していることは十分理解できます。しかし、それほど大量ではないかもしれませんが、ネットにサイトを構え、こうして多数のメルマガを送信している当の本人が、現にいま大騒ぎしているではありませんか。ですが多分、自分が慌て騒いでいる姿は、このアンケートに関わるものではないと考えているはずです。
 どうやら、私の解釈は見当はずれでもないようです。これらの選択肢の設定には、自分に責任があるかどうかという視点が欠落しています。
 
 折しも、このメルマガの編集後記として、「被害者のお父さんの手記は、痛々しくて、全部読めませんでした」と記してありました。一見、心優しい人である印象を与えるかもしれませんが、私に言わせれば、むしろ逆です。自分に責任があると思うなら、しっかりその言葉を受け止めなければならないのです。「痛み」をもつという勇気ある正対ができないために、問題から目をそらすのです。自分が追究されることのないように。
 
 もう一つ、再発防止のために有効だと思うことを3つに丸をつけよというアンケートの選択肢は、次のようなものでしたが……。
 1)教師の指導力の増強
 2)道徳教育の増強
 3)事前の予防指導
 4)家庭での幼少時のしつけ、や生活指導
 5)子どもの共同学習体験等
 ここにも、どこか他人事のような項目が並んでいるばかりです。そして、どうして「3つ」選ばなければならないのかも、よく分かりません。項目も抽象的に過ぎて何がどう違うのか、何を意味するのか、私にはよく分かりません。自分のことだと受け止めているならば、もっと具体的な、伝わりやすい説明が可能になったはずではなかったでしょうか。
 しかし、犯人探しを私がするつもりで云々言っているのではありません。自分がこの責任の一端を確かに担っている、その痛みが自分の胸にはあるのだ、という気概が必要であることを、誤解を招きかねない仕方ではありますが、示そうとしたに過ぎません。
 
 私たち――いいえ、「私」はどうでしょうか。
 インターネットが一つの引き金になった可能性があるという報道を耳にして、ほっとしていないでしょうか。ネットのせいなのだ、と。まさに自分も、そのインターネットを利用しているくせに。
「ばかな。ただネットを利用しているだけの者が、この事件に責任があるわけがないじゃないか」
 これが、普通の捉え方でしょう。それも一つの考え方です。その人は、責任を感じている人がいるという事実を認めたくないに違いありません。何か自分以外のものの責任にして、自分が安心したいだけの人にとっては。
 
 この問題について、《私は》どんな責任を負っているだろうか。
 すべてここから考え始めるとき、私たちが学んでいる「社会」はいくらかでも住みやすくなっていくのではないでしょうか。自分だけは違うけどな、と言いつつ、悪いのは誰だ、と捜すばかりの「犯人捜し」を続けているならば、それとは逆の方向へ進むばかりです。自分自身が「痛み」をもちつつ、事態に接することができるとすれば、少しでも何かが変わっていくかもしれないと望んでいます。

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