言論の自由と新聞社
2003年1月16日


 今日1月16日、Y新聞に載せられた週刊Sの広告の一部が、白抜きになっているという事態が起こりました。
 他紙でこの週刊Sの広告を見ると、その白い場所の記事は、そのY新聞の販売店絡みで金銭が不当に使われているふうな内容の見出しでした。
 第三者の問い合わせに対して、Y新聞側は、当社を誹謗中傷する記事は載せないという内規があり、週刊Sにもその点を了解してもらい、白く抜いたと言い、週刊S側は、できるだけ載せてくれるよう頼んだがY新聞が抜きますとしか言わないので了承したと言ったそうです。また、Y新聞側は、法的手段を用いて週刊Sを告訴していくと付け加えました。
 
 自社に対する批判であっても、載せるべきだというのが「新聞」の理念ではあるでしょう。しかしまた、新聞社が一「企業」であるというのなら、載せることを許すはずがありません。この場合、Y新聞は後者の立場を貫いたわけです。
 多少太っ腹に構えて、「その真偽のほどは今後の調査によって決めてもらおう」というふうに、載せてしまうという方法もあったでしょう。いっそその方が、世間の人々は「Y新聞は大人だ。きっとこの記事は間違いなのだろう」という印象をもったかもしれません。もちろん、ストレートにその見出しだけを見て、「Y新聞も金まみれだ」と思う人もいるはずですが、「Y新聞は自分でそう認めたからこの見出しを掲載したのだ」と思う人は稀ではないでしょうか。新聞社側はこのような事態を恐れたのかもしれませんが。
 
 一概に、Y新聞の措置が非常識だとは思いませんが、この出来事は、マスコミの性質を明白に物語るものとなりました。つまり、新聞社や放送局は、事実を報道するのではなくて、自分に都合の悪いことは報道しない、ということです。
 企業の自浄能力が問われています。牛肉や乳製品などの不正が発覚するにつれ、いくつもの企業が、解散や損失に追い込まれました。内部告発を応援する法改正も進められています。社内調査の必要もさかんに報じられました。そのことを、新聞社や放送局は暴きました。社会正義の力を、ペンで示しました。
 しかし、今回の新聞社は、自分の社内については、正義そのものに決まっているという態度で、それに批判の矢を向けた別の出版社の意見を受け付けることはしませんでした。たぶん、社内調査もすることなしに。
 ペンにはペンで対抗するというのではなく、ペンに対して、それを封じるかのような態度をとったのです。
 

『チョムスキー、世界を語る』(ノーム・チョムスキー著/田桐正彦訳 トランスビュー発行 2002.9. \2,200) という本があります。そのp224-225「訳者あとがき」に、次のような記述があります。
 
「言論の自由」とは、通りのよい、常識的なことがらを口にするための自由ではない。そんなことなら、なにも「言論の自由」「表現の自由」と力んでみせるまでもないからである。
「言論の自由」とは、百人のうち九十九人までが是認することにただひたり異を唱える権利、九十九人までが憎しみをもって握りつぶそうとすることがらを、ただひとり声を大にして叫ぶ権利にほかならない。したがって、そもそもの最初から、「言論の自由」とは、もろい、あやうい権利なのである。それは多数者の怒りを招き、憎しみを買う、あやうい道をゆくことなのだ。
 その道を確保しておくためには、つまり、いざというとき、圧政にあえぐ少数者の声をひろいあげ、それを世界に向かって伝える道を開けておくためには、ただひとつの方法しかない。それは、言論の中身を問わず、あらゆる言論に表現の自由を認める、ということである。この場合、重要なのは、平等・無差別の権利の確保ということであって、いっさい特例を認めないことがかんじんなのである。
 チョムスキーはこういう「原理」に忠実にふるまっただけである。……
 

 言語学、ないしはコンピュータ言語に対しても限りない貢献をしたチョムスキーは、大きな誤解を受けたことがありました。ユダヤ人への偏見をもつ極右の意見表明に対して、彼らがそれを語る権利はある、としたのです。運悪く、極右勢力は、チョムスキーの言葉を自分たちの宣伝に用いたものですから、チョムスキーがすなわちユダヤ人差別をし極右になったというような印象を与えました。それで、ぼろかすに言われ続けてきたのです。
 もちろんチョムスキーの真意は、発言の自由について認めるということであって、発言の内容に賛同するなどといったものではありませんでした。しかし、かなりの知識層までもが、チョムスキーを激しく糾弾したのです。
 上の引用から、もう一度強調します。
 

「言論の自由」とは、百人のうち九十九人までが是認することにただひたり異を唱える権利、九十九人までが憎しみをもって握りつぶそうとすることがらを、ただひとり声を大にして叫ぶ権利にほかならない。
 

 新聞社や放送局は何を守るべきなのでしょうか。それを捨て去ったY新聞のような態度は、今後も続けられて、それでよいものでしょうか。

 今でこそ、歩きタバコについて新聞社や放送局は批判の眼を向けています。危険だからこんなことは許せない、と。しかし、十年前から、私はさかんに新聞社や放送局に問い続けました。歩行喫煙がいかに危険であるか、と。しかし、すべて黙殺されました。歩行喫煙の危険性については、報道の「ほ」の字もありませんでした。当時は、新聞社や放送局にとって、タバコ会社の広告は、大きな収入源だったからではないか、と思われますが、どうでしょうか。

このページのトップへ→

パンダ          


つぶやきにもどります