安全な場所から言いたい放題
2003年7月6日

 デモ。人びとが街頭で展開するこの示威行動には、さまざまな顔がある。命がけで、あるいは自由な意思で、自分の主張を示そうとするデモ。当局の強制や誘導でやらされるデモ。はたまた遊び半分やレジャー気分でのんべんだらりと参加するデモ…。
 ▼香港が中国に返還されて六周年の一日、香港市内を埋めた五十万人(主催者発表)の市民デモは、一枚の新聞写真(AP)を見ただけでも激しい熱気が感じられた。この熱気は官製のやらせでは決して生まれぬ。真剣な市民の気持ちがそうさせた。
 ▼香港ではまもなく中国に対する反体制的活動を規制する新法ができる。そのときメディアの政府批判は“扇動性の出版活動”とされ、政府や軍関係の特ダネ記事は“国家機密窃取”に問われかねない。言論の自由を懸念する人びとの叫びが聞こえてくるようだった。
 ▼一方、北朝鮮でも大デモがあった。朝鮮戦争勃発記念の六月二十五日、百万人が平壌の広場を埋めたが、全員が一斉にこぶしを振り上げ、また“反米!”をシュプレヒコールする。一糸乱れぬ統制は、当局の強制を想像させて不気味極まりないものだった。
 ▼日本でも「反戦平和」「戦争反対」のデモがあったばかりである。お寺の境内で反戦ハンストというのもあった。「人間の盾」でイラクへ出かけた連中もいた。ところがこれがタテにもヨコにもならず、ほうほうの体で逃げ帰ってきた。
 ▼デモもハンストも面白半分だったとしか考えようがない。「今度の戦いで日本人の多くは事実の裏も読めず、厳しい現実にも参加せず…ただその場限りの平和を唱えることで、自分は善人であることを証明しようとした」(曽野綾子さん)だけだった。ただ“証明”のためのデモもあるらしい。
(2003/7/3 産経抄)



 しつこいかもしれませんが、産経新聞からの引用を再びお許しください。

 産経新聞が、左派を嫌っているのは分かっています。言論というもので競う範囲では、たくさんの意見を語ったらよいでしょう。しかし、とにかく正しいのは自分しかいないという前提で、知ってか知らずか、詭弁を弄して自らの正当性を世間にアピールするというのなら、それは逆に卑劣な手段と言われて仕方のないことになるでしょう。
 香港のデモには「見ただけで」官製でない真剣な気持ちが感じられるけれども、北朝鮮の一糸乱れぬ統制は、強制を「想像させて不気味」なのだといいます。それに対して、日本の反戦デモは、真剣な気持ちの側の正反対の側にあり、「面白半分」でしかありえないと断言じています。産経抄の記者はその上で、命懸けの行為を嘲笑います。「人間の盾」の「連中」は、「ほうほうの体で逃げ帰ってきた」、と。最後に、引用の力を借りて、その人たちは、「自分は善人であることを証明しようとした」だけのただのおふざけでしかなく、その道化を「証明」するためだけの行為であった、と断罪するのです。

 もはや、これは言論とは呼べない性質の文書ではないでしょうか。人を愚弄するとはこのことで、左派的な行為は即、「面白半分」で「不気味」な「悪人」(善人であることを証明しようとした、という表現は、それが善人ではないという前提を包含している)のものだと、何の理屈もなしに言い切ってしまうのです。根拠も配慮も何もなく、これほどまでに人をバカにする文書が、言論だと言えるのでしょうか。
 これが、2ちゃんねるの書き込みなら、よいのです。新聞という、それこそ「善人」の顔をした巨大な権力が平気で行うのでなければ。問題は、正義の顔をして、実は何の根拠もなしに言いたいことだけを言い放つ体質です。

 福岡では、木村公一という牧師が、命を懸けてイラクに入りました。バグダッド北部の変電所に配置され、間近で爆撃の炎を見ました。牧師は、イラクの中の、本来戦火に晒される必要のない人々のためにできることはないか、と祈りの中に示されて、命を懸けてそこに留まりました。日本にいる支援者たちは、銃後という表現は当たらないかもしれませんが、イラクの民衆と牧師のために祈りました。バグダッドがアメリカ軍の手に落ちて、役割を果たしたことを確認すると、牧師は役目を終えて日本へ帰り、休む暇なく、現場での出来事を各地で講演する使命に燃えて働いています。
 産経抄の記者は、この牧師をも、命からがら逃げ帰ったバカな道化であり、善人面をしている愚かな悪人である、と高笑いし、一蹴しているのです。自分は平穏無事な日本で早くイラクをやっつけろと(たぶん裏地は日の丸の)アメリカの旗を振りながら。
 こんなことはないと思いますが、もしかすると、「たしかに怖くなって逃げ出した者が、人間の盾の中にはいたではないか」と言うかもしれません。ですがこのコラムは、人間の盾「の中には」いたとは書いてありません。全称命題で書いています。人間の盾(あるいはデモをした者)すべてが、逃げ帰り、面白半分であった、と記しているのです。この論理のすり替えが、産経抄の記者の得意とするところです。一部にそういう人がいたために、すべての人もそうであった、というのです。自分と反対の考えをもつ立場のグループに対しては。
 ではその記者そのものはどうなのでしょうか。命を張った人間の盾となった人々や、仕事を休んででもデモに参加した人々に対して、問答無用と言ってのけたほどの記者本人は、どういう態度なのでしょうか。逆に質問してみたとしましょう。
 彼は、自分は「面白半分」ではないと言い張るでしょう。自分こそ「善人」であると信じ主張してやまないでしょう。そして新聞という正義の味方の中の、さらに唯一正義である産経新聞のコラムで、これからも高みの見物を続け、政府に逆らう者は狂人か道化である以外ありえない、と罵倒し続けるのでしょう。

 私たちもまた、根拠なしに「それは当然だ」という切り口で人を裁くなら、こうした部類に属する者となりかねません。聖書の中の、ファリサイ派の記事を、自分もそうかもしれない、と読む者は、幸いです。自分もまた、そうなりかねない恐ろしい素質をもった人間である、という意識を、私は忘れたくないと願っています。
 自分は安全な場所にいながら、言い放題であることは、たとえばこのネットでの言論も、無関係ではないでしょう。ただ、根拠なしに批判をしようとは思いません。かの新聞のコラムには、自分の中では当然と思えても、他人に丁寧に伝えることのできない――それは私の目から見て根拠がないと思われるときもよくある――根拠から、人を嘲笑するような書き方がしばしばあります。
 この、言論ならぬ言いぐさでも、形が新聞の発言とあれば、信じ込んでしまう読者もいるでしょう。そうして「問答無用」「天誅」と昔叫んでテロを行った思想と同じ轍を踏んでいく危険性を、抱えて歩んでいくことになるのです。
 命を大切にしない運動の扇動者は、決まって安全な場所から大衆に呼びかけ、動かします。くれぐれもひっかからないように!


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