言葉はコトバだけではない
2004年2月26日

 面倒なので、あまり精密には論じないようにします。
 国連のアナン事務総長が、日本に来て、イラク派遣を歓迎したような言い方をしました。そのことで、当然、嬉々と喜ぶ面々がいるわけです。言わずと知れた、国粋主義のS新聞のコラムニストは、自分は国連には不信感を抱いているがこの演説はよかった、と手放しで称えています。
 都合のよい場合だけ相手を褒めるというのは、何もこの人だけではありませんが、とにかく自分の主張したいことの援助になると思うと、何でも利用しようという考えは、貧しい発想に見えてしまいます。
 それというのも、そもそもこの事務総長が話す場合の立場というものについて、見つめ直してみたいからです。
 ある国に招かれた。その国会で演説をすることになった。その国は最近、あることで国内を二分するような論議を行ったが、政府はA案を採択した。そのA案は、この演説者の指揮する団体にとって悪くない選択であった。はたしてこの演説者は、そのA案を決議した国会の場で、A案を批判するようなことを、口にすることができるかどうか、という問いです。

 卒業式で祝辞を述べてほしいと頼まれた人は、壇上で卒業式など形式的なだけだから廃止したほうがよい、と語ることができるでしょうか。
 成人式の壇上で成人式のあり方を非難した若者は、社会からは受け容れられませんでした。そうした批判は、他の場で行うべきであって、式そのものの中で語ることではない、とされるのが社会通念だからです。
 言葉は、語るその場における地位のようなものをもっています。同じ言葉でも、語る場面の中では、優しい言葉にもなるし、怖い言葉にもなるでしょう。褒める言葉にも、叱る言葉にもなるでしょう。親しい間柄で「バカ」と言っても笑えるのに、他の場合には侮辱になりケンカになるでしょう。
 活字にされた言葉だけが、すべてを物語るものではありません。

 もちろん、政治という言葉の世界は、その語られた言葉に対して、発言者は責任を負います。だから、一般人よりなおさら厳しく「失言」問題が取り上げられるのです。政治の世界では言明が重要であり、言明された事柄は実現されることになるわけなので、通常よりよけいに言葉に重みがあるとされるわけです。
 その意味で、事務総長の発言は、たしかに軽率な言葉などではありません。国際連合の代表者としての考えを、よく表現しているはずです。
 しかし、それにも増して、事務総長がその場で語るべき内容は、実は語る前からそれしかないというほどはっきりしていました。立場上、そしてその場面上、事務総長はそのように語るほかはありえなかったのです。

 ですから、その発言を根拠にして、ある意見が一方的に真理であるという結論を下すことには、無理があります。ちょうど、成人式の中では成人式のことが批判されない通年があるゆえに、成人式には問題がない、と結論するのが間違いであるように。
 つまり、ゲーデルの不完全性定理を持ち出すわけではないにしても、その体系自身の正しさは、その体系の内部では証明できないのであって、成人式の中で成人式が非難されないがゆえに成人式に問題がないわけではありません。国会の中で国会の問題が議論されなくても、国民は問題があることを知っています。議員は議員削減には賛成したくないし、警察が警察内部に甘くなることも周知の事実です。それは、ある意味で仕方のないことなのです。
 言葉が出されたとき、そういう背景を理解しておく必要があります。でないと、いわゆる「言葉尻」をとらえただけの行為となるでしょう。それは、揚げ足を取る場合もあれば、逆に今回のように、(不適切な表現ですが)他山の石とする場合もあるわけです。

 五年生の国語のテキストに、言葉についての文章が載っていました。語る側と聞く側の心構えについての文章でした。
 それによると、聞く側は、語る人の気持ちを汲んで、何が言いたいのかを十分察知して聞くようにしなければならないし、語る側は、言葉にしなくても相手が理解してくれるだろうと甘えることなく、言葉で正しく伝えようと努力しなければならない、というものでした。
 これは実に健全な結論です。そして、言語活動の大切なところを簡潔にうまく表現しています。
 ところがオトナは、これを実践できません。およそそれの逆ばかりしがちです。語る立場というものがあることに気づかずに、その言葉だけを自分の利益になるように利用しますし、またあのコラムでそうであったように、他の新聞社の書いたことを嘲笑うようにもなります。自分では勝ったつもりなのでしょうか、たいへん見苦しい、子どものわがままのようです。また、そうした自分の主張を人々に理解してもらうために、説得をしようとか自分の考えを理解してもらおうとかいう姿勢を示さず、ただ相手の揚げ足を取って嘲笑うというのも、このテキストの推奨する言語活動とは正反対の事柄でしょう。
「それが政治的主張というものだ、お人好しなことを言うようなことはおかしい」
 オトナはそう言うでしょう。そうです。そういうオトナの言語体系の内部では、あるいはオトナの言語ゲームの内部では、その体系の不備を証明することはできないわけです。そこにどっぷり浸かっている限り、それが真実であると思い込まされ、信じているということになるのです。
 出家して教団の中に閉じこもった信者たちが、オウム真理教のおかしさに気づくことができなかったのと同様に……。


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