本

『牧師のレジリエンス』

ホンとの本

『牧師のレジリエンス』
ジョン・ヒューレット
植木象平訳
いのちのことば社
\1800+
2021.6.

 レジリエンスというのは、本書のサブタイトル「逆境でも燃え尽きない再起力」ということでよいだろうと思う。がちがちに我を通すのではなく、柔軟に適応しながら、回復していくことをいう。ちょっと刺激的なタイトルである。
 アジアンアクセスジャパンという団体から、日本における宣教のために力を尽くしてきた著者が、自分の経験もふんだんに取り入れながら、さらにふだん指導していることを踏まえて、本書を彩る語りを流してくれる。聞いていて心地よさを覚えるのはどうしてだろう。その言葉の向こうに感じる、著者の温かさだろうか。それこそ、キリストの愛というものであるのだろうか。
 本書の描く場面は、牧師の「引退」である。いますでに牧師をしていることが、まず前提である。だが、その職は、というのが嫌なら使命が、でもよいが、それが永遠に続くわけではない。天皇や教皇がかつてそうだとされていたように、生涯現役で、その死によって初めて職を解かれるというのが、牧師にとっては理想なのかもしれない。事実、講壇で倒れたら本望と宣言する牧師もいたし、実際そうなった人も、いるにはいる。だが、殆どの場合は、どこかで線を引いて、一線を退くことになるだろう。それはいつ、どのようになのだろうか。そのときどのような心理であるのだろうか。また、教会としてはどのような実務が伴うのだろうか。どのくらいの期間をかけてその準備をする必要があるのか、また後継者をどのように探して、継承していくようになるのか。経験がないと、教会としてもなかなか分からないような部分が、本書にはたっぷりと語られている。
 それらを、ケーススタディのように、一つひとつチェックポイントを挙げるような形でも並べられている。だから、本書は、心構えを精神論的に述べるばかりのものでは決してない。むしろ、ハウツー的に捉えてもよいくらいだ。だが、ただのハウツーではもちろんないのであって、そこには霊的なものが十分漂っている。その意味でも、たいへん不思議な本であるように感じる。
 いろいろな人の相談に乗った上での、経験のまとめでもある。だから、抽象的なまとめを必要としながらも、その背後に多様なドラマが存在することがひしひしと感じられる。著者がマラソンの経験があることから、そうして辿る道を、マラソンレースに比しているのは、少し無理があるにしても、読者に分かりやすく言いたいことを伝えることになったのではないだろうか。ゴールを定め、それを目指して走り抜くのだ。走っている最中にも、ゴールラインに達した自分を想定する。けれどもそれは、自分だけで走るレースではない。神が共にいる。神に支えられて走るのである。
 考えてみれば、このようなゴールを迎えることができる、あるいは想像することができる牧師というのは、かなり恵まれた牧師ではないだろうか。そもそもそのように教会員に慕われる牧師であるかどうか、のハードルが高い。
 教会という形のためには牧師が必要ではあるにしても、どうにも大したことが語れない。従って、信仰はもつとは言っても、形だけ聖書の話を毎週聞いているだけというような信徒は、燃えるような霊で信仰を沸き立たせるようなこととは程遠く、せいぜい組織の継続ができたからそれでよいかという程度の日常しか知らないようになってしまった。信仰もただの物語の中の出来事でしかなく、ただ何か困ったときに助けがあったことが、祈りが聞かれたのだと喜んでいればそれで十分というような、信仰生活。
 あるいは、何かしら教会員の思惑にそぐわない言動があるなどして、それもとくに声の大きい自己主張の激しい少数の信徒が騒ぎ出して、教会全体に「なあ、そうだろ」式に勢力を拡大し、ついに牧師を追放するということもありうる。
 私は、これらの両方とも目撃した。そのとき、牧師を具体的に助けることができなかった。ひとつは、物理的に無理だったが、ひとつは、それを止めることができたかもしれないのに、自分と家族の身を守るために教会を去った。それを自己弁護するつもりはない。ただ、そういうことがしばしばあるのだということを、考えたいのである。本書にあるような、幸せな結末は、当たり前のように待ち受けているのではない、ということだ。
 中程に、幾人かの証しが掲載されている。その中で、いたたまれなくなったものがあった。女性牧師の話である。牧師家庭に生まれたその女性は、献身の召しもはっきり受け、神学校へ進む。すばらしい良心を範として、教会を支える自分の姿を想像していた。だが、子育てに忙殺され、何もできない自分に落胆する。しかし、いわゆる「公園デビュー(まだこの言葉はあるのだろうか)」を機に、ママたちと教会がつながる恵みを得る。牧師としての働きは自身はできず、夫に委ねるが、父として彼は子どもたちの運動会には一度も行けない。彼女は母として、せめて午後からだけでも、と必ず行く。「大切にされていない」との思いを子どもたちに懐かせてはいけない、との思いからであった。神を愛することは、一番近い隣人を愛することによってこそ全うされていくのだ、と教えられる。子どもたちの心を大切にする姿は、教会活動を言い訳にするようなことをしなかったが故のものであった。ここに挙げられない多くの苦労を重ねながら、何もかもを背負い込みながら行くのではないのだというテーゼとともに、歩み続けているのだという。
 女性牧師の置かれた立場や、求められている営みは、えてして冷たい。教会といえども、日本の世間と、そう変わりがない。具合が悪いのは、神のためという大義名分のために、その冷たい態度が、正当化され、神の正義として押しつけられることだ。否、私たちが押しつけることだ。
 本書はその点を特に取り上げて論ずることはしない。だが、この証しを載せたことには、意味があると思う。教会でもしも本書を学習のために用いるとしたら、こうした生々しい声を、真摯に受け止め、取り扱って戴きたいものだと思っている。バーンアウトは、起こってしまったら、なかなかもう戻れないのだ。
 そういうわけで、引退を意識し始めた牧師はもちろんのこと、少なくとも教会の役員になっている方は、この本から初めて知る景色を見るとよいと切に思う。




Takapan
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