本

『贈与の系譜学』

ホンとの本

『贈与の系譜学』
湯浅博雄
講談社選書メチエ726
\1650+
2020.6.

 表紙の、屠られる小羊の絵が印象的である。そして、新鮮な着眼点を提供してくれる、楽しい本であった。いったい「贈る」とはどういうことか。フィールドは倫理学であるとも言えるが、広い視野を伴い、古代から人間がもつ贈与の特質、そしてやはり核心に近いところに置かねばならないであろう、キリスト教の考え。もちろんそれは、ヨーロッパ哲学に影響を与え続けているために、著者の得意とするであろうフランスの現代哲学の視点を伴った、力のこもった本であった。
 印象的には、同じ一つのことを言うために、言い換えや説明は当然必要であるにしても、かなりそれが長かった。数行で事足りるかもしれないと思われる場面でも、頁を跨って説明が展開することが度々あったような気がする。より性格な表現や、他の見方を踏まえて、一つの命題を読者に突きつけようとする故であるから、もちろん悪いことではない。しかしその同じことがまたスパイラル状に、後に繰り返される様子も見られ、それだからまた、主張が強く心に残るという効果をもたらした。それを目論んでいたとしたら、なかなかのテクニックである。
 贈与。ひとにものを贈る行為。これは交換とは違い、一方的な行為であると見なされうる現象ではあるが、事実上、見返りを期待していたり、相手も返礼をすべきだと考えたりする前提があるのではないか。この社会的儀礼が殆どであるとする中で、世界の文化の中には、一方的な贈与というものがないわけではない。その違いはどこにあるのだろうか。
 しかしキリスト教の成立は、無償の贈与という思想を伴うものだった。イエスが、価なしで救う。神が命を与え、人はそれを受けるだけ。そこには強烈な犠牲というものがあった。純粋な贈与は、とてつもない犠牲によるものであるとしか言いようがないものであるのかもしれない。ただの交換関係、ビジネスのような付き合いではない、究極の他者との関係がそこにはある。私たちは、何か特異な「他者」との出会いの中で、贈与そのものを知ることになりはしないだろうか。
 実際、贈与は簡単なことではない。著者によると「激しい出来事」である。私たちが通常意識する、流れる時間クロノスを破るものである。著者はしきりにそれを「裂け目の時間」と呼ぶ。キリスト教神学的に言えば「カイロス」であろう。反復的に、模擬する仕方で、生きる経験を全うする、そのような表現を多用しながら、著者は自らの世界を展開していく議論となっていくが、詳しい脈絡は皆さんがそれぞれに辿って戴くほかはない。
 ただ、独特であるかもしれないのは、この行為を「死ぬこと」と強く関連づけることである。私たちは恐らく確実に死を迎える。しかし、「自分は死んでいる」という認識をもつことはありえない。その瞬間へ向けて死の経験については未来的に考えつつも、死ぬ経験そのものをもつことができない。その結末へ到達することがありえない状況の中に置かれているということになる。自分のなそうとする贈与も、究極の贈与となりえないことを覚えつつ、問い直しをし、また何らかの行為を続けていく。そのような営みを、死の経験と重ね合わせながら考えていくのである。
 こうしたことは、実はプロローグの中で語られている。しかしそこでは粗筋だけが書かれているようなものなので、最初に見渡しておくという効果があるものの、案外すべて読み終わった後から読んだほうが肯きやすいものなのかもしれない。その後の本論の過程の中で、カントの道徳論とその批判としてのニーチェなどを説きながら、幾度もループを巡るように、著者のひとつの眼差しから見える世界を読者になんとか伝えようとしているのが本書の一冊の出来事である。
 自分の死を見つめること、他者を受け容れること、一見贈与とは何の関係もないようなことがらが結び合わされていく。さらに言えば、贈与という現象の背後あるいは根底に、そうしたものが潜んでいる。著者はそのように見て、贈与という、普通に考えてその純粋なものが起こり得ないような事柄の陰にある人間の根源のようなところに光を当てようとしているように見受けられる。
 著者は最後の最後で、「また新たに生きられる」ことへとつながる視点を突然のように紹介する。私はそこまで読む中でうっすらと感じていたものが、それで合点がいくような気がした。著者は明らかに、特別に、死に対する何らかの抵抗や問題意識がある。宗教的な確信でそれを語るという方法も、人にはあるだろう。しかし著者は神などの権威や外からの声にその根拠を置こうとしているわけではない。だから自分の内にその根拠を把握したいと考えているのだと思う。だが人間が人間自身の中に、死の問題を克服できるものがあるとは思えない。だから、しきりに繰り返し自らに、論理的にこういうことでいいはずだよね、と呼びかけるかのように繰り返す様子が垣間見えるのではないだろうか。それは、どこかエピクロスの理論にも助けられている。なにしろ死んだ者は感覚も思惟も失うのだから、死を経験するはずがないというものだ。それともうひとつ、ゼノンのパラドックスを頭に置いていることも予想される。飛ぶ矢にしろ、アキレスと亀にしろ、ある先の場所の半分に到達するには、などという理屈を持ち出してくるパラドックスであるが、著者の死に対する見解にも、それと類似した説得が入っている。自らはそれで納得しようとしているのだし、死の問題を克服できるのだと自分に言い聞かせているように見えて仕方がない。果たして本当に納得できたのだろうか。
 それとも、自分を投げ出しても構わない、と思う誰かに出会えて、純粋な贈与を確固たる存在として握り締めたが故に、取り出してきた多くの問題がアポリアではなくなった、という経験をすることができたのであろうか。




Takapan
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