本

『絶望に寄りそう聖書の言葉』

ホンとの本

『絶望に寄りそう聖書の言葉』
小友聡
ちくま新書1685
\840+
2022.9.

 コヘレトの言葉は、旧約聖書の中でも異色の書である。「空の空」などと繰り返すところが、仏教思想の言葉でもあるせいか、日本人が比較的受け容れやすいのだそうだ。NHKテレビで、コロナ禍に入った時にこの書についての番組を半年にわたり担当した。また、新しい聖書協会共同訳の翻訳も担当しているというせいもあって、一牧師並びに神学校教授である身から、マスコミや出版のほうからも声がかかるようになったようだ。その後いくらかの声がかかるようなったらしい。本書もその一つである。
 タイトルに「絶望」とつくと、引かれるのだろうか。それとも、自分のことだ、と思う人が手に取るのだろうか。後者であってほしい。しかしそれを一度に希望に変えるとか、幸せになれますよとか、そんな言い方を決してしていないタイトルである。「寄りそう」とはどういうことか。何もできないけど、そばにいるよ、ということなのか。だとすれば、なんとかしてくれよという叫びに、どう応えることができるというのだろう。
 寄りそうのは、聖書の言葉である。言葉ならば、それが直接何かをしてくれるわけではなさそうだ。言葉であれば、それを読むかどうか、どう読むかを含めて、こちら側の態度が求められる。そう、もちろん読んで戴きたいのだ。読めば、そこに力が働くであろう。何かを感じ、聖書を開いてみようか、という気持ちが起こされるかもしれない。ひっ捕まえて金をむしり取ろうとする宗教団体もあるけれども、ただ語りかける。紹介する。指し示す。ここに、言葉がある、と聞いてもらう。ここに命がある、ということが伝わるように、そっと、聖書の知恵を並べていく。
 孤独や疲れ、妬み、家族、そして死。詳しく言わなくても、絶望へとつながる可能性の高い問題が並べられる。これらを章のようにして、聖書の各場所から短く言葉が引用されるのが基本形式だ。その聖書の記事の説明も、折りに適って施される。私たちの生活の中への適用もする。そして、その暗い情況に立ち尽くしてしまうかもしれない人々に対して、聖書から与えられる希望への道を、調えておくのである。
 聖書という名がつく、ちくま新書である。しかもこの閉塞感のある世の中で、絶望を覚えている人に対して、聖書から光を投げかけようという企画である。もしかすると読者に媚びたような、ありきたりの聖書箇所を説明しているだけのものではないだろうか、と最初この本は買わないつもりだった。それが、書店で手に取ってぱらぱらとめくっているうちに、これは思った以上に良い本なのだという気がして、購入したのである。
 決してくどくはないが、幾度もゆっくりと語りかけるかのような筆致は、福音というものを、「福音」という言葉を使うことなく伝えるかのように、聖書を知らない人にも、知っているつもりの人にも、その懐に鋭く押し入れてくるような気がする。もちろん、反応がどうであるのか、は時を経なければ分からないが、これはやはり見事な作品なのではないだろうか。私も、心躍るような気持ちになることが度々あったのだ。やはり原点というのは、大切なものなのだ。
 実は「あとがき」に、その辺りのことを含め、本書の動機などについての事情がよく示されている。著者は、かのテレビなどで、しきりに「生きよ」というメッセージをコヘレトの手紙は送っているのだ、という理解を話している。その確信は揺るがない。ここにあるのは「生きよ」。だとすれば、絶望し、閉じこもり、他者とのコミュニケーションを拒んだような魂に呼びかけるメッセージとして、確かに「寄りそう」ものとなりうるのではないかと思われる。
 かの番組は、カトリックのライターである若松英輔氏と著者とが対談する形で進行した。それが、『すべてには時がある 旧約聖書「コヘレトの言葉」をめぐる対話』という本の形で残されている。若松氏も最近引っ張りだこであるが、身の回りの不幸なことを踏まえ、悲しみについて寄りそうような発言や著作が、目立っている。この対談から、著者は、カトリックから教えられることが多々あったようである様子も、この「あとがき」から窺える。カトリックは「聖書の言葉を感性で受け取ろうと」する、のだというが、単純に言うことの是非はともかくとして、聖書の言葉を「霊的に」捉えることは確かにあるように見受けられる。プロテスタントの一部には、これがあまりにもなさすぎる。それでは命がない。著者は、もしかすると、若松氏との出会いから、さらに霊に響く言葉を準備できるようになっていのではないだろうか。本書のもつ温かさは、そこにも起因するような気がしてならない。
 今、途方に暮れている人に寄りそう。それが聖書である。まさに、タイトルはブレていない。新書に必要なのは、このプレの無さである。ここでは、絶望の現実と、主が共にいるという平安が、底流にある。それは、何事にも愛があってこそ生き生きと働くことができるであろう、などと人が口にするのとパラレルであるかもしれない。本書の主眼は、聖書の言葉をただ切り刻むように解釈し尽くすことではない。聖書の言葉の、背景や意味などのきっちりとした解釈を踏まえた上で、人を生かす言葉を伝えようとしていることだ。それは、まさに礼拝説教のもたらす奥義でもあるに違いない。結局のところ、聖書の言葉は人を生かすものであるはずなのであって、日本人にとり近づきやすいコヘレトの手紙を通してその道に案内しようとする著者の考えは、祈りに満ちた真実のものである、というべきだと私は思う。大切なひとに、贈りたいと今願っている。




Takapan
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