『善と悪』
大庭健
岩波新書1039
\740+
2006.10.
サブタイトルが「倫理学への招待」。タイトルからすると、なんともつかみ所のない看板である。本の紹介を見ないと、手を出すべきかどうか分からない。その辺り、どこかで目印になるような言葉が表に出てくるとよかったような気がする。従って、ウェブサイトに寄せられたコメントの中には、思ったより難しかったという声もあった。
そのためにも、著者が、倫理学方面の専門であることに加えて、分析哲学をも営んでいる点を、示しておくとよかったのではないだろうか。
分析哲学ということは、逆に言えば論理を持ち出してくることになる。もちろんそれは、注釈もなく一読して読み進めるようにつくるべきである、という「新書」のお約束からすれば、過度な専門性を宿すわけにはゆかない。しかしまたこのことは、従来の倫理学の命題について、感情や尤もらしい信念のような主張からごり押ししてくるようなことからも、本書は守られているという強みでもある。事実、一定の倫理学的命題において、きっちりと論理を持ち出して、その指摘は正しくない、ということを明解に指摘するような場面もあり、むしろ私は清々しいものを覚えた。
最後のところで、本書の論点が整理されている。これをばらしてしまうのは営業妨害かもしれないが、逆に詠みたくなる人が現れることを願って、そのまとめをさらに簡潔に、ここに零してみよう。
まず、「善・悪」の問題は、何を以てそう判断するか、という点を定める必要がある。道徳的判断は、「善い」と「悪い」という言葉でなされるものであろうが、その「善い」というのは何がどう「善い」ことであるのか、世間ではしばしば曖昧である。これは私もよく指摘させて戴くものである。何かしら筆者の思い込みで、これは善いに決まっている、というふうな独断が無根拠に立てられる場面を、いったいどれほど見てきたことだろうか、と思う。
その道徳的判断は、如何にして客観性をもちうるのであろうか。とくに「投影主義」と呼ばれることにしばらく時間を置く。私たちの側の反応を、対象の側でもそうだろう、と投影することにより、道徳を成立させているのではないか、というのである。しかし単純に決められはしない。ただ、何らかの実在性を否むことはできない。人は、その相手との関係において、支えられるこもとあれば、痛めつけられることもある。案外「お互いさま」という了解は、十分検討されるべき事柄なのであろう。
道徳的には、誠実と不実というように、対立する徳性があると思われる。ただ、善と悪という捉え方は、それらのように同じ次元で対立するものというよりも、徳よりひとつ上のレベルで、より抽象的に判断する場面に必要な概念ではないか。その意味でも、何らかの普遍的な視点というものが必要とされるように思われる。著者にとり、「道徳原理は、普遍化可能でなければならない」ということになる。
また、発言する者がどういう立場にいるか、によっても、道徳判断の意義が変わってくることも明らかである。そこで「不偏の観察者」が認められなければならない、とも言う。こうして、カントの道徳哲学が活かされていることにいては、著者自らが告げている。
それにより、著者は、「最大多数の最大幸福」をもじるようにして、「最大多数の最小苦悩」というひとつの命題を提示する。もし本書の続きがあれば、ここのところをもっと深めることになるのではないだろうか。この後に、話題は現代社会に現れる、具体的な話題へと移る。案外ここが、読者にとっては最も興味深い場所ではなかっただろうか。
このとき、自分のいのちを、「所有」の意味で「自分のもの」と考える考え方が誤っていることに触れられていた。これは個人的に興味深い。「生きるということは、いのち(生)という財を用益して、より大きな個人的効用(幸福)を絞り出していくプロジェクトだ」というふうに書かれているのは、やや堅いが、私たちがもっと考えていくための、意義ある道標となっているかもしれない、と感じた。
最後の方にある「終わりに」には、著者の本音のようなものが並んでいるように見える。「いい人生だった」という肯定が、私たちには必要であるだろうこと。善悪を考えるにあたり、「聞き届けられなかった呻き」を感じる心をもちたいということ。「お互いさま」の大切さは認めるべきだが、結局私たちは自分ひとりであるということを引き受けるべきである。それでも、そういうひとりである私のために「祈る」他人がいることを覚えたい。また、私も誰かのために「祈る」者でありたい。著者がこのように、証拠立てるのではなしに、次々と短く零していくこの最後の箇所は、私にとり、最も快かった頁なので会った。
ところが、本当の終わりには、「あとがき」がさらにある。ここには、逆に批判的な声が集まっているように見えた。モラルが問われている場面で、自分は法に触れるようなことはしていない、と居直った官庁の幹部への憤りがまずあった。それは戦争のときにもあったようなことである。また、自身の振り返りとして、「一般読者には箇所によっては不必要に重く、倫理学の専門家にとっては軽すぎ、情況的には迂遠にすぎる」であるだろうことも予想して書いている。だが、それはそれでよいと思う。
その上でそこには、「無理筋の自己正当化を声高に繰り出して利益や収益を求め、相手が黙ると自分の正しさが認められたと勝手に勘違いする」ようなクレーマーが身近にもいる、と指摘し、そこには「呼応可能性」がないのだ、と思いつつ、そのことをなんとか書きたかったというような心中が吐露されている。
私は心密かに、拍手を贈った。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド