本

『齋藤孝のざっくり!西洋思想』

ホンとの本

『齋藤孝のざっくり!西洋思想』
齋藤孝
祥伝社
\1575
2011.5.

 テレビや著作で引っ張りだこの著者である。特に教育的観点からの信頼は絶大で、NHKはどっぷりと著者の思想に浸っている。つまりは、マスコミを通じて世間に影響を与える力が非常に大きい人である。
 この本の特徴は「ざっくり!」にある。このフレーズを入れて、歴史なども別に著作があるというから、様々な教養に溢れた人であり、様々な分野がこの著者の思想により一貫して語られることが許されているということである。
 ここでは、哲学の世界が扱われている。「あとがき」には、このタイトルの「ざっくり」を一番に掲げ、だから粗さはあるだろうし単純化したことも許してほしいと予め反論を防いでいる。まことに狡知である。
 まことに「ざっくり」とは便利な言葉である。細かいことを言ってはいないよ、ということで、小さな間違いは免除される。この本にも至るところに存在する。現象学のところでは、リンゴは赤いことが概ね真理であり青くはない方向で間違いないと断じているが、他の国ではリンゴは青いのが常識であったりすることをお忘れである。また、デカルトの自我とデカルト座標系の原点との関連は、これまで見た本にはどこにも指摘されておらず、自分の大発見ではないか、と小躍りしている個所があるが、残念ながらそれはすでに常識的な理解であることは、少しばかりインターネット検索の手間を惜しまなければはっきりと分かるはず。そんな基本的な理解を、哲学者や哲学研究者が四百年近く、気づかないなどということは、どう考えてもありえない。まったく、あまりに無邪気でおめでたい。
 この本では、いろいろな思想を扱っている故に、その都度各時代の哲学者にのりうつりながら語っているので、非常に曖昧だが、その中に著者自身の価値観を、主語なしで(つまり私が思うには、と明示しないで)語ることが多いため、果たしてその哲学者がそのようなことを本当に言っているのか、著者が解釈しているだけなのか、全体的に曖昧になっている。つまり、よほど原典をつぶさに調べた人でなければ、その哲学者はそんなことを言っておらず著者の思惑がまるでその哲学者の思想であるかのように語られている、という、あちこちに見られる部分を判別できなくなっている。
 要するに、この本は哲学史を、著者がどう理解しているか、のレポートなのである。体験談を根拠にするあたり、学生レポートよりもむしろ質が低いが、ともかくその程度のものでしかないと私は判断した。
 著者が学生時代までに学んだ、というより、実はこの本の中には著者の体験がかなり告白されているのであるが、自らが思想にどのようにどっぷり浸かり、何を柱として自分の考えが定まっていたのか、そうした点が珍しく明らかにされている本であるがために、その若き日に著者を捉えた思想のありさまが、この本のベースになっている。だから私が一読して感じるのは、今から30年近く前の大学の風である。四半世紀前の大学で、骨のある学生が受けた風が、この本を形成していると言ってほぼ間違いない。その意味で、思想理解の点から言えば、四半世紀前に哲学をかじっていた学生たちのノスタルジー的な記念碑とはなりうる著述であろうと言えるものと私は考える。
 そして、教会学校に幼き日に通った経験のある著者だそうだが、それが逆にその後アンチに回るときに役立ったのか、極めて自己自身から世界を認識する自己本位の思想に強く憧れ、またそれを自分の考え方だと固め、著者は自己を超人的存在にしていく世界観に傾倒していく。故に、神の存在に潜在的にかもしれないが、敵意を覚えているように見受けられる。実に執拗に、神を殺すことに関わるのだ。そう言うとニーチェを思い浮かべる方々も多いことだろう。そのニーチェはこの本のある意味で主役となっている。かなり扱いも大きい。そして、ニーチェがおよそ言っていないようなことも、恰もニーチェ哲学であるかのように紹介される。原罪を遺伝的におかしいと熱心に語るあたりは、著者の信念であろうと思う。神に自分の拠って立つ根拠の空しさを突き崩された私とは違い、著者は、あくまでも神のほうを蹴散らす方針を貫く。聖書の原罪論は、決してこの本に書かれてあるようなものではないのだが、著者はひとえに原罪論が矛盾しているから神についての思想はすべて信頼できないと確信していることが、この本全体から読みとれる。西洋思想を三つの山で読むのもまあかつての思想界の常識ではあったが、この本もその筋に支えられており、さらに言えば、この本全体で、とにかく神の存在を否定しようとしているという意気込みが、息づかいの中に感じられてならないのである。
 福沢諭吉や論語は著者にとり、自我の実現のために役立つ傍証のように用いることが可能なのだろう。この本に限らず、あちこちで絶賛する。しかし自我の実現を支配的に罪だとして否む神の存在は、著者にとりどうしても許せないものなのであろう。罪は、遺伝の故にもたらされたものではない。問題は、私自身が罪ある存在であるかどうか、ということである。赤ん坊は無垢で罪がないに決まっているじゃないか、という持論の著者は、赤ん坊の中に自分の無垢を重ねて正当化したいもののようにすら見える。だが果たしてそうだろうか。自分に罪があるのかどうか。自分を罪の中の存在といっさい認めないともがくのか。著者が憧れるニーチェは、きっとその点で、最終的に超人になることはできなかった。狂ってしまったのである。この本では、そのニーチェ自身の破綻については一言も触れられない。都合が悪いからだろう。尊敬し、また著者の思想の根底にあるかもしれないようなニーチェの思想は、ニーチェ自身の破滅という結末を迎えていたことを、敢えて見ないで済ませようとしているが、さて、著者は今後、そこから隠れ続けていられるのであろうか。こればかりは、残念ながら「ざっくり」と曖昧に済ませられるものではない。




Takapan
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