本

『百合のリアル』

ホンとの本

『百合のリアル』
牧村朝子
星海社新書38
\820+
2013.11.

 なかなか大変な本をお薦めすることになる。「百合」とは何かすら考えたこともない方もいらっしゃるかもしれない。本書の末尾の表紙カバー(そで)に記されたところを引用すると、
 ゆり【百合】
 1 ユリ科の多年草。主に、ユリ属の鱗茎(球根)植物を指す。
 2 女性同士の同性愛を指す言葉。
 今時分では、LGBTQなどと言って、公認しなければならないようなムードが漂い始めたが、依然相当な差別を受けているのは間違いなく、興味本位で見られているという実情があることだろう。
 執筆時26歳、パリ在住でタレントやアドバイザーのような仕事をしていて、女性と暮らしている。レズビアンライフサポーターという肩書きの仕事だそうである。その一環として、本書が著された。レズビアンとしての生活や生き方を紹介し、理解し合える社会にしたい、あるいはそういう理解者を増やしたいという思いからではないかと想像する。

 構成が実に巧い。章はマンガの頁で話への導入を図り、あとはイラストにより発言者を示す対話形式で進んでいく。本当の「モテ」を考えるMAYAの恋愛セミナーのチラシやポスターに誘われて、4人の若者が集まってくる。ちょっと弱気でへたれ加減だが異性愛タイプの男性と、思ったことをずばっと口に出す異性愛タイプの女性、それから女の子が好きな自分に悩む女子高生と、男の機能を有しながら女として生きるオトナ、そしてレズビアンの先生とが集まって、最後まで話を繰り広げるという形である。話題がほどよく移っていくし、著者が伝えるべき内容は網羅しているし、実によく考えられた構成で、内容や語りかけも申し分ない。本当によく分かった気がする。これだけの著述の力量だけでも拍手喝采である。
 確かに最初は「モテる」とは何かという話から入る。それを哲学的にとも言えるだろうが、深く考えていくうちに、男とは女とは何かという問いを突きつけられていく。何気なく分かった気になって使っているような言葉を見つめ直すことで、単純にその思い込みに当てはまらない実例に出会っていくのである。
 確かに、性同一性障害と呼ばれるタイプもある。しかし、病気だとして片付けてよいものだろうかという視点で考えはじめる。それは個性であり、また個人の権利を有する事柄ではないか、というのである。すると、性愛タイプに、実に様々なパターンがあることが分かる。もはや疾患だとしてそれでよいものではないことが次第に分かってくる。まさに一人ひとりが違う個性であるかのように、それらが浮き上がってくるのであるが、社会はどうしたわけか、一緒くたにしてそれを障害はまだよいほうで、異常だとして扱い、差別を繰り返してきたことに目を開かれていくことになる。
 そもそも自然の動物の中にも同性愛は歴然と存在すること、また世界の歴史の中でそれはいつでもあったこと、現在でも他国の中で様々な形態の、男女に区切られない性のあり方が存在することを学ぶ。もちろん、それらを強制的に治そうとする対処も多々あるが、それらを並べると、実にいい加減で奇妙なものかが見えてくる。治そうとする試みが間違っているのではないかと、読者は皆思うようになるだろう。このもっていきかたもまた巧いと思う。
 セクシュアリティの正しい分類など、ありえない。このスタンスで対話は進んでいく。そして、一応括った形で例えば「レズビアン」と呼ばれるものについても、そんな一括りになどできないということを、キャラクターたちは知っていくことになる。しかし、現実に社会のあり方や法的状態は、同性での結婚や社会生活について厳しい措置をとっており、これが時折ワイドショーなどで、自分たちは真面目に取り上げていますよ式に紹介はされるものであるが、実のところこうした面だけを取り上げて何か理解を示す良い社会人であるような振りをすることに、私は抵抗を覚える。私は聴覚障害者とふだん交わっているが、社会で取り上げられるそうした方々の扱い方は、確かに嘘はないかもしれないが、いくつかのことを取り上げてさも理解したような自己満足ばかりで、現実の生活の細々としたこと、差別の扱いなどについて、気づこうともしないことが多いことを知っている。だから、この同性愛などの立場についても、異性愛者としての私たちは、理解しているぞと言わんばかりの顔をしていても、何も分かっていないというものであろうという気がしてならない。そのことが、本書を辿ることで、自分に突きつけられたというのが正直なところである。まさにこれが、レズビアンの「リアル」の、そのまた一部なのである。
 社会的な生き方の困難さも具体的に挙げられると、次はセックスへの関心となる。興味本位の方ならば、ここだけを知りたいものだろう。この問題も、本書は真正面から真面目に受ける。そして、一番気をつけなければならないのは、AVもので見せられているようなものは、ないとは言えないかもしれないが、基本的にただの演出であり、性愛の形は個人個人、カップルごとに違うはずだという、考えてみれば当たり前の事実が教えられるばかりである。
 現実にどのような出会いの場があるか、というリアルな問題は、これは当事者たちには日常的なことであっても、異性愛者には分からない。聴覚障害者がどういう場で交わっているのかについて無知であるのと同様だ。しかしまた、同性愛者にとっても、異性愛者の社会の中で、どこかでカミングアウトが必要だし、それなりの付き合いをしていかなければならない。その現実というものも最後に明らかにされる。外国籍の人が日本で暮らすときの生活の苦労の一つひとつというのは、日本人は気にかけないものなのだ。これをも知らなければ、差別を受けている人々のことを理解したことには全くならないし、知らないが故に、気づかないうちに自分も差別をして苦しめているということがあり得るし、そうしていても自ら気づくことができないわけである。
 結局、人は「自分」というものをどう捉えるか、大切にするか、そして相手における「自分」を互いに認める社会でありたいものだという、当たり前すぎるところに落ち着くのであるが、異性愛者たちは、これを同性愛者たちに対して、加害こそすれ、理解は全くといってしていなかったことがはっきりしてくる。
 私は、終わりの頁の、それぞれがまた自分の場所に別れゆくイラストが、大好きである。胸がキュンとする。こうして彼らは、私たちの社会の中に入っていく。私のそばに、こういう思いを抱えた人がいるのだし、こういう思いを理解した人が確かにいる。私もまた、その一人に加えてもらいたいと思った。つまり(同性愛者じゃないけど同性愛に理解を示している)「アライ」であればと願う。




Takapan
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