『勇気論』
内田樹
光文社
\1700+
2024.5.
タイトルに惹かれた。というのは、「勇気」という概念について、集中して考察している人や本を、殆ど見たことがなかったからである。
著者については、いくらか存じ上げている。『福音と世界』への連載をきっかけに出会ったが、各方面で発現をしており、いろいろ学べることが多い。そういうわけで、内田氏の「勇気論」は、発売されたときから関心をもっていた。ただ、実物を手にしたとき、それが編集者との往復書簡でできていることを知り、ちょっと躊躇っていた。論じたものではないのだという。私はどちらかと言うと、「勇気」という概念について系統だった分析をして論じたものを読みたかったのだ。エッセイ風が悪いとは言わないが、自分としてはそうだった。だが、時間を置いてまた手に取ったとき、やはりこれは面白そうだ、という気持ちになった。人間、その時々に応じて、気分は変わるものだ。
そういうわけで、読み始めたが、これが実に面白い。これが論文調であったら、1日に10頁かそこらしか読み進められないと思われたが、これだと電車の中で40頁くらいはすうっと流れてゆく。しかも、頭によく入ってくる。発売後1年近く経ってから読んだのは、もったいなかったかもしれない。が、それが相応しい「時」だったのだ、と思うようにしよう。
どうして分かりやすいか。簡単である。光文社の古谷さんという編集者(?)は、本をよく知る人とはいえ、哲学的な思考に関しては素人であると言っていい。喩えは悪いかもしれないが、居酒屋で話に耽る二人の会話のように、話が展開してゆくのだ。しかも、会話とは違い、手紙は一定の量を一気にまくしたてて伝える形になるため、勢い最初から一発で伝わるような表現や言い回しを考えて、ある意味で必要以上に長い説明を十分加えて届けてゆく。読みやすいはずだ。
さて、形式は、古谷さんが内田氏に手紙を送る。そこに、編集者の意図がこめられているとは思うが、質問が寄せられるのが普通である。あるいは、古谷さん自身の身の上話や思い出すことを盛り込んで、内田氏の考えを誘い出す。こういうことが、往復九回繰り返されて、分量的にも決められた範囲で、だいたいよい塩梅に着地した、ということになっている。内田氏は、古谷さんの求めるままに返信するわけではない。新たな視点や、思わぬ話に展開することもある。その度に、古谷さんはいろいろ「振る」ことを繰り返しつつ、ある程度の方向付けを試みているように見える。その意味では、著者は確かに内田樹氏であるのだが、古谷さんが隠れた舵取りをしていると言えるのかもしれない。
そもそも何故この企画が始まったか、についても最初に明らかにされている。内田氏が、週刊誌の連載記事の中で、いまの日本人に一番足りないものは何か、と訊かれたときに、とっさに「勇気じゃないかな」と答えたことがきっかけであるという。これが古谷さんの目に留まり、会って話している中で、「勇気」について書くような流れができた。ただ、内田氏としては、論述するほどまとまった考えができていたわけではないため、「往復書簡形式」ならやりましょう、ということになったのだという。
偶然のような機会が集まって、本書ができた。だが、だからこそ、気ままに吹く風のようでもあり、また心にあるものが素直に流れ出ることにもなったのではないかと思う。また、古谷さんの自身の体験談など、本当に聞いていてわくわくするものが多々あるのだ。
例えば、中学のときに窃盗団の一味として、事情徴収をされたことがあるという。首謀者は友人だったのだが、自分のせいにされたらしい。面倒な話をするつもりがなく、とにかく何も知らない、とだけ言っていたら、停学処分のような目に遭ったのだそうだ。学校に戻って経験したのは、「孤立」。しかし、この企画の中で心に思い出されたのがその一件であった。
この告白に至る流れは、実は内田氏がつくっている。「勇気」ということにおいて、「孤立を恐れないこと」だというスタンスから、そこまでいろいろ話をもってきていたからである。
古谷さんは、その後も、大学でのこと、就職してからのことなどを明かし、結構大胆に、したいと思ったことをやっていた時代だったことを思い起こし、報告している。コロナ禍での海外での体験から問題提起をすることもあり、それに対して、内田氏が返信をまた寄越している。多忙な執筆活動の中、返信が遅れたことを度々詫びながら、毎回詫びていては読む方が辟易するかもしれないが、しかしこうした詫びは必要なのだ、というような独り言まで並んでいるため、その場の空気というものが、よく伝わってくるような気がする。
一つひとつ挙げればきりがない。だが、論述ではないので、一つひとつ挙げなければ、紹介したことにもなりそうにない。どこかを適宜拾って、こんなのもあるよ、とご紹介するしかないのだが、もし全体に軸があるとすれば、内田氏のモットーでもあるようなのだが、「勇気」「正直」「親切」、この三つだと言えそうだ。時に中国の故事や漢字の意味を交え、時に自分の専門のレヴィナスなども出汁ながら、議論は刺激的に進み現れる。決して難しい哲学的な議論を始めることはなく、いつしか教育論や社会論にも橋を架けながら、終わりへと導かれてゆく。あちこちの居酒屋をハシゴしながら、締めの店にまで辿り着くかのようである。
もちろん、論理的に結論へ邁進するわけではない。だが、独り単独でも、物事に立ち向かうこと。勇気の極みは、この辺りに有りそうである。いまの時代に勇気が足りない、という最初の漠然とした回答は、たとえば「同調圧力」というものの存在により示される。「孤立に耐えても、言うべきことを言う」(p268)人が少なくなったのだ。しかしまた、「刎頸の交わり」のエピソードを引用して、「勇気とはおのれに理がないと知った時にためらわずに「ごめんなさい」と言える真率のことである」(p273)というような宣言にも至っている。
最後の返信を結ぶこの発言は、書簡としては閉じられる場面だったが、この後、「あとがき」が寄せられている。ここには、それまでよりも凝縮した形で、内田氏の主張したいことがまとめられているように見える。
そこには「神も理性も信じ得ぬ時に、人はどのように行動しうるのかを知ること」(p281)というカミュの言葉を引く形で、「勇気とは「孤立に耐える」ための資質である」という、最初からの宣言の筋を通す営みがなされている。また、「他者が他者であることに耐えることのできる力」(p287)だということを以て、およそ伝えたいことをまとめているのだが、そこをご紹介するには、まだ概念に飛躍がある。そこのところは、直にお読みになって確認して戴きたい。「あとがき」は、少しばかり哲学的な論調になっているのである。
しかし、私が何故本書を面白いと思ったのか、それもなんだか分かるような気がしている。どんどん読み進んでいけたのも、納得できるような気がしている。いまこうしている私はきっと、「ささやかな勇気」を持ち合わせているに違いなかったからである。

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