本

『ゆびさきの宇宙』

ホンとの本

『ゆびさきの宇宙』
生井久美子
岩波書店
\1890
2009.4

 点字を少し打ったことがある。必要があったからだ。基礎の基礎くらいは心得たつもりだったが、ついに全部暗記する前に、その必要がなくなってしまった。だが、コンパクトな道具は持っているから、いつでも再開することはできるだろう。
 パソコンのソフトで、日本語の文を点字に変換してくれるものが無料でもあるのだ。もちろん特殊なプリンターであれば、点まで打ってくれるが、印刷したものをその通りに打つだけでも、ずいぶん手間が省けるというものである。そして、点字をよく知らない人にも作業を頼むことができる。
 視力に障害があっても、耳が聞こえるとき、人の話は聞くことができる。ところが、その音のほうも閉ざされたとしたらどうであろう。この本のサブタイトルには「福島智・盲ろうを生きて」とある。そう、目が見えず耳も聞こえない、この福島さんのドキュメンタリーなのである。
 18歳にてすべての音も奪われた。それは、物理的に見えないとか聞こえないとかいうだけでなく、最も恐ろしい面を知らせることとなった。孤独感である。コミュニケーションができないとき、果てしない宇宙に抛り出されたような不安の中に置かれるというのである。
 母親が、指点字を用いてコミュニケーションを図った。残る触覚を頼りに、点字の点の位置を指で知らせることにより、言葉を通わせるのである。
 盲ろう者として大学進学を果たし、結婚もした。大学で教鞭を執るところにまでその日々が連なっている。その福島さんの半生が、この本にこめられている。
 その具体的な日常の叙述が、私たちに、何が問題であるのか、何をどうすればよいのか、問いかける内容となっている。とりたてて問題を立てて提言しているという訳でもないと理解すべきだろう。だが、その日常のレポートが、私たちにより強烈に、問題を提示する。なにげない私たちの普通の生活が、これほど不自由するのだ、などと。
 そればかりではない。読み進みその生活に想像力がついていけるようになるにつれ、私は分からなくなってきた。見えていないのは、私自身のほうではないのか、と。聞こえていないのは、私ではないか、と。まさに、ヨハネ9章の通りである。見えていると思っているほうが、実は見えていないことに気づかされるのである。
 私の経験からいって、視力に障害のある方は、ユーモアがたっぷりあることが多い。冗談が好きで、人を笑わせるのが喜びでもあるようだ。コミュニケーションがとれていることの証拠かもしれないが、聞こえないほうをも抱えてしまった福島さんであっても、確かにユーモアがある。ユーモアは、大切なコミュニケーションの手段であることが分かる。
 盲ろうの方は、少なくない。しかし、表に出て来る人は少ない。陽の当たるところに出て来ない、あるいは出られないということで、隠れて生きておられるのだろうか。「盲ろうを生きて」というサブタイトルが、ひとつの光になればいいと願う。
 図書館で借りて読んだ。印税を支援に回すという著者の熱意に協力したことにならないのであろう故、少し心が痛む。だからというわけではないが、ここで宣伝させて戴く。多くの人の目に触れて欲しい本である、と。
 そこで図書館の方に注文。図書館の本は、厚手のビニルでカバーを貼り付けることになっている。その決まりは尊いし、作業も大変だし、ケチをつけるつもりなどさらさらない。ただ、せっかくこの本の裏表紙に、本のタイトルと著者名が、点字で打ってあるのに、それをビニルカバーで読めなくしてしまっているのが、もったいないと思うのだ。表表紙と背表紙にもある本のタイトル文字も、明朝体だが、少しばかり立体的に作ってある。触覚を頼りにする人のための配慮だと見る。これが、全部カバーのために、いわば塗りつぶされたようになってしまっているのである。
 本の意図を汲んで、何か融通を利かせてほしかった。




Takapan
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